+LOVE通信「ひろいばなし選手権」2022年下半期

2022年下半期に配信したVol.53からVol.82の中からお好きな3話を選んで投票していただく「ひろいばなし選手権」。
2022年上半期は同率1位で下記2作品でした。

Part.1

Part.2

 

 

「LOVEのひろいばなし」選手権
2022年下半期ラインナップ

  • Vol.53 タケルくん、白鳥に
  • Vol.54 盛大なるプチ勝訴
  • Vol.55 初めまして、デスクの中村です
  • Vol.56 たとゅろう型
  • Vol.57 梅澤太郎です
  • Vol.58 ホテル登戸
  • Vol.59 ソフトウェアと才能
  • Vol.60 Gibson J200
  • Vol.61 作曲の転機
  • Vol.62 目指せAプラス
  • Vol.63 船内着と中華麺
  • Vol.64 にっきのしょっき
  • Vol.65 チベットの星空
  • Vol.66 望洋とした自由
  • Vol.67 相馬アベンジャーズのエイトノット
  • Vol.68 八丈島1223
  • Vol.69 同い年の母と
  • Vol.70 思考と習慣
  • Vol.71 温泉三万円事件
  • Vol.72 秘技!さよちゃんの行列流し
  • Vol.73 エイジレスの秘訣
  • Vol.74 パンプキンおじさん
  • Vol.75 上を向いてアルコール
  • Vol.76 いつから歌えたの
  • Vol.77 へなちょこディフェンダー
  • Vol.78 ピーターさんとティラミス
  • Vol.79 SOMA BLUEの一人歩き
  • Vol.80 ぼ の だ よ
  • Vol.81 ラブです、イヴです。
  • Vol.82 二〇二二年です

 

LOVEのひろいばなし

Vol.68 八丈島1223

 

同級生から石を投げられた。なぜなのか、わからない。

そう母に告げたら、母も「どうしてだろうねえ」と肩をすくめていた。僕はなにもしていないのに。真相がわからないまま、そのあとすぐに僕は生まれ育った八丈島を出ることになった。八歳のときだった。姉の高校進学に合わせて引越すとだけ聞かされていた。僕が石を投げられた理由をもちろん母は知っていて、すっとぼけていただけなのだと今ならわかる。

八丈島は東京都心から南方二八七キロメートルの海上にある伊豆諸島の一部だ。行政区分は東京都八丈町で、自動車の登録は品川ナンバーになる。引越し先は本土だ。「同じ東京都」とはよくいったもので、移り住んだ先の杉並区は、当然ながら島とはまるで別世界だった。

 

 

小、中、高と杉並区で育った僕は自然と都会っ子になった。思春期を過ごした杉並には大いに愛着がある。だが、島生まれの杉並育ちで「地元」という感覚がない宙ぶらりんなこの気持ち、いつも人に上手く説明できない。出身は?地元は?と聞かれるとき、中途半端さを覚えてしまう僕がいる。ただし、もし誰かが「故郷は?」と聞いてくれるなら、僕は迷いなく八丈島と答える。

僕が十八歳になったとき、父が死んだ。とっくの昔から父の愛情など知らずに育っているので、我が父を「敬う」「弔う」という実感をまったく持てないまま、高校生三年生になった僕は帰島した。海風がやはり懐かしかった。この香り。同じ潮風でも、品川埠頭と八丈島の港では色も香りも柔らかさも違うのだ。

母が粛々と段取りを進めている中、参列に来る島民たちからそこはかとなく感じる敵意のようなものがあった。父を亡くした十代の少年やその母を前に、お悔やみをいうよりも先に「うちは何千万を、あそこは何千万も貸したのに」と憎々しげに話しているのが聞こえてくる。労りのないその空気だけでも十分に事情がわかるぐらいには僕は大人になっていた。叔父が僕に聞こえるようにだけ、「お前は何も悪くないから堂々としておけ」と言ってくれた。

島では家長制度が根強く残っている。父は十人兄弟の長男だった。その父の元に最初に生まれた姉たちは双子だったことで珍しがられたものの、親戚一同、他兄弟の息子たちのほうをより重宝がったという。

そのプレッシャーをしかと理解している、同じく八丈島出身の母が僕を産み落としたとき、数えきれないご先祖さまたちがガッツポーズをしたのではないかと思う。おそらく一斉にワアっと酒でも酌み交わしたのでは。うちの家系は室町時代まで遡ってもみな八丈島の住人だったというから、後継者の誕生にかける一族の見えない次元の期待感たるや。なんというか、そもそもの生誕から、僕は、僕ごときにはどうしようもない脈々と続く何かのしがらみを背負ってこの世に登場したのである。

僕はじいちゃん子だった。じいちゃんと浜を散歩するたびに「いつかお前がこの家を継ぐんだぞ、墓を守るんだぞ」と刷り込まれたものだった。それ自体が何なのかピンと来ていなくても、幼い僕は誇りに思っていたと思う。じいちゃんは八丈島で一番の事業を手がけていたやり手で、数億単位の資産を築き上げていた。その数字と同じだけの損失を父親がどうやって作ったかは僕にはわからない。

葬式での空気から考えるだけでも、そんな父の側らにいた母が、当時の狭い島社会でいかに肩身の狭い思いをしたか、想像するに容易かった。もともと、父という存在も、その不在をも憎んでいた僕は、これまでの思いをただただ深く刻みなおすしかなかった。

一族の墓は、小高い丘のてっぺんにあった。

じいちゃんたちの足腰には辛かったろうに、と思うほど延々と山の中を階段が続く。そして丘のてっぺんにやっとたどりつくと、青空に向かって石碑がそびえ立っていた。その真下、四角い部屋になっている霊廟には代々の長男たちとその家族が眠っている。壺の数だけで単純計算はできないが、父はたぶん十六代目にあたる。
葬式はすべて母が取り仕切るものだとぼうっとしていた僕に、急に長男として最初の仕事が与えられた。

「納骨」だ。これは喪主ではなく一族の長男に課せられた義務だという。人がゆうに立って入れるぐらいには高さがある霊廟に、僕はひとりで骨壷を置きに入った。そこは思っていたより暖かく、一歩足を踏み入れると静かな安心感があった。僕自身が何かに守られているかのような心地がするぐらい、不思議な部屋だった。

本土に戻って二十歳を超えた頃、僕は自分がまったくの下戸だということに気づいた。少しは嗜めるようにならないとなあ、と思い立った僕は、以前から気になっていたバーに飛び込みで入ることにした。ウイスキーやブランデーが何百種と並ぶ非常にこだわりの強いシックな店だった。履歴書すら持っていなかったが。

「ここで働かせてください」

店長曰く、「下戸のお前なら、俺に隠れて営業後に高級酒を飲むことはないだろ」。そんな理由で採用されてしまった。とはいいつつも「働くのならば味をいちから学べ」とオーナーが進めてくれた最初の酒は、飲みやすいラム酒だった。

衝撃の美味しさだった。ほのかに甘く香りる香ばしさが強烈に脳天を突いた。その後、ウイスキー、ブランデー、と順に酒の味を勉強していった僕だったが、初めて飲んだあのラム酒への感動を超える感動に、その後出会うことはなかった。

個性の強い先輩や飲食店経営者のパワフルな人たちと知り合った僕は、やがてご縁あって南青山にある飲食店でしばらく働くことになる。そして、二十代後半でその店を引き継ぐタイミングが来たとき、僕はラム酒を取り揃えたバーにしたいと思った。世界中から徐々にラム酒を集めて味を研究し、歴史をくまなく勉強した。小さな店だが、今ではもう来年10周年を迎えようとしている。ありがたいことに地元の常連客に愛されてコロナ禍も乗り切った。

主にサトウキビから作られるラム酒は、世界5大陸、各国、今では地酒やクラフトビールがごとくそれぞれの地域に根ざしており、もちろん日本にも小笠原諸島、沖縄や鹿児島の島々など、その土地の名をつけたボトルがある。

所狭しと並んだ酒瓶。カウンターには四人。テーブルが三つほど。小さな店。

正式に起業することになった会社登記のあの日、僕の心は海に沈む鉛ほど重かった。共同で運営する仲間には優秀な先輩もいるのに。一番若手の僕がなぜ代表を。まともにやっていけるのだろうか。荷が重くてしかたがなかった。

まさに深いため息をついた瞬間、店の電話が鳴った。島の役場の方からだった。

母方の祖父関連で問い合わせをしていた件の返答だが、担当者がいうには、調べごとの経緯のなかで祖父よりもひとつ前の世代、曽祖父についての記述が見つかったとのことだった。

明治二三年、沖縄県の未開の地だった南大東島の開拓にむけて、八丈島から二三名の志願者が出発した。六〇日の航海を経て上陸したのは、サトウキビを植えるためだ。僕の母方の曽祖父はその最初の一人、南大東島に一本目のサトウキビを植えた人物だった。

 

 

受話器を握っていた僕の目の前には、透明に輝く、まさに南大東島のラム酒のボトルがあった。八丈島からサトウキビを植えに移住した曽祖父。そこで生まれた祖父がまた八丈島に戻り、母が生まれ、父と出会い、僕が生まれ、そんな僕が百二十年の時を超えて今ラム酒のバーをオープンしようとしている。鳥肌がたった。

「なんでラム酒のお店にしようと思ったの?」と、今夜の最初の客が聞いてくれたのだった。コロナ前以来からだから、二年ぶりだろうか。久々に挨拶に寄ってくれたミュージシャンの女性だ。彼女の好奇心に誠実に応えようとしたら、ここまでとても話が長くなってしまった。

二十歳の僕がたまたまバーで雇ってもらえたことも、最初のラム酒に感動したことも、会社登記の日に電話が鳴ったことも、このいたずらを仕組んだ者がどこかにいるとするならば、そいつの名前はおそらく「八丈島」だ。きっと酒好きの陽気なやつに違いない。

四十代になった今、僕には妻と六歳の長女、五歳の長男がいる。新たな目標は、「八丈島ラム酒」をオリジナルで作れる酒造を立ち上げること。もう事業は始動している。地元八丈島で協力を頼んだ人たちは、半数が父のせいで冷ややかな反応だったが、もう半数はじいちゃんのおかげで協力的だった。

結婚当時、妻と本籍地についての会話になったことがある。本籍なんてどこにでも設定できてしまうものだから、富士山のてっぺんの人もいるし、好きな都道府県を選んだっていい。妻はどこでもいいというので僕が八丈島にしたいと言ったのだけれど、八歳まで暮らしていた実家はとっくになくなっているし、家族事業で使っていた建物も他人の名義になっていて、ちょうどいい住所がなくなってしまっていた。ただし、一箇所を除いては。

じいちゃんが持っていた広い土地があったのだ。東京や本土では貴重がられること間違いなしの広大な敷地でも、将来的に売れる見込みもない島では固定資産税を考えると相続すら悩ましい。実際に移住して住むほどのメリットがない限り、負担になりかねない土地なのだ。一部、親戚が好きに選んだ一角にポツリポツリと家を建てて暮らしている他は、島の自然の一部と化している土地だった。結局ぼくらは東京の現住所を本籍地とした。

今ではこの土地のどこかにいつか「八丈島のラム酒」の事業所を作りたいと思っている。その時が来て、住所が決まれば本籍地をうつしてもいいだろう。そして、もし僕の息子がこの「八丈島ラム酒」事業を引き継いでくれるなら、いずれは家も建てたいとも思う。というか、そうなることを僕は強く望んでいる。面白いもので長男の僕はまた長男へと八丈島の継承を考えているのだ。ただし、次世代には、うまく独特のしがらみからは解放されて本土と行き来してほしいと願っている。

女性客が笑う。なんだか引きが強いね、と。

親になって、最近では今まで考えつきもしなかったようなことを実感している。僕の息子が何をきっかけに将来僕を恨むかはわからないが、でも、それは僕には関係がないのだ、とか。

そして、僕は息子が僕を恨む以上に息子を愛しており、僕にとっての事実はそれがすべてなのだ、とか。自分勝手かもしれないが、むしろ清々しくそして深く今はそう実感している。

僕らが本土に引っ越した後、父は父で、祖父の広大な土地からわざわざ特定の一角を選び、どうしようもない小さな家を建てて暮らしていたようだった。そして、その住所の末尾の数字は「1223」。僕の誕生日の数字と同じだった。わざわざ父はそこを選んで暮らしていた。なんと会話の下手くそな人だったんだろう。

これもまた「八丈島」という名のあいつによる、僕ごときには争いようのない、脈々と続く一族の会話の一部だったとするならば。僕はまだきちんと「1223」という呼びかけに対する返事をできていないことになる。

今後、するかもしれないし、しないかもしれない。もしかしたら、いつか幼い僕がじいちゃんと手を繋いで散歩したように、僕の息子が何らかの形で父に返事を返すかもしれない。でもそれすら、もう誰にも関係ないのかもしれない。

「八丈島のラム酒」ができた暁には、僕はまず息子をつれてあの丘を登り、墓参りに行くのだと思う。

 

※祖父が建てた鳥居

 

はなしのつづき

 

伝わるかと思いますが、実話です。こんな話、思いつくの無理です。

高校の同級生たちと時々飲みに行く、南青山のバーのオーナー、きくさんのお話です。

気づいたら多分もう十五年ほど知り合いですが、久々にご挨拶に行って、はじめて「なんでラム酒だったの?」とゆっくりお話を聞かせていただきました。人に歴史あり。

っていうか、作り話よりも人のリアル人生がやっぱり一番面白いと思う。

きくさんのお父様みたいなことって時々あるよな、おかしいな、と思います。どんなダメ親父さんなのかは詳しく聞いていないのですが、お父様のダメっぷりのおかげで、結局きくさんは八丈島のしがらみからいったん外に出ることができた。何が功を奏すかはわからない的な展開。

ちなみに、今年のあたまに母島、父島と旅した私です。小笠原ラム酒などについても、少し近しく感じられて興味深く聞けました。

きくさんの「八丈島のラム」は二十年かけて作るつもりだそうです。オーナーご自身のためにというより、故郷八丈島と次世代に残したいもの、なんでしょう。

さて、ラムはもともととても悲しい背景で生まれたお酒です。簡単にまとめると。

大航海時代、ヨーロッパ人が北インドでサトウキビでできた「砂糖」に出会ってそれまで食べていた蜂蜜とはちがう麻薬性に虜になった。サトウキビを持って帰ったけど、ヨーロッパの土壌ではうまく育たない。じゃあ育てられる土地をみつけてこいやと命を受けたコロンブスが「新大陸発見」。ほかにもコットンや、紅茶、スパイス、いろんなものの農地を欲しがったヨーロッパ人はその後植民地を増やしていきます。

南米では、サトウキビ栽培を前に、侵略の中で現地の民族殺戮が過ぎてしまい労働力が足りなくなります。とヨーロッパ人は今度はアフリカから人を拉致移動させました。奴隷制度です。

サトウキビ農耕生活は大変厳しく辛い強制労働となります。そんな中、アメとムチのアメとして奴隷に与え飲ませるために、サトウキビから砂糖を作った残りの副産物で作ったお酒がラム酒だったんだそうです。

「人間の欲ぶかさや罪ぶかさとともに、ラム酒が寄り添いつづけた奴隷の人々の悲しみや喜びについても思いを馳せたくなるでしょう」ときくさんはいいます。

これまではカウンターのボトルを眺めているばかりの私でしたが、少しだけ南大東島の透明のラムを味見させてほしいとお願いしました。

「みんな時代が変わっても辛いことを抱えて生きている人たちがそれでも笑ったり踊ったり、お互いを労ったり鼓舞して絆を深めるためにお酒ってあるはずだからね」

きくさんが、がんばろうね、と言ってくれたような気がしました。

って、私もきくさんもほぼ下戸ですけどね。

 

 

読者からのメッセージ

 

■タイトルだけを見て内容を思いだしたものを選びました。個人的にインパクトがあったんでしょうね。ネタは尽きませんね。

 

■何か、、、おらぶさんの人間性が特に記憶に残ってます。個人的にはぼのくんのドSな呟きもツボでした。

 

■Vol.62 目指せAプラス: え?評価は学校の成績だけ?と学生時代にも誰もが「うんうん、そういう風に進路についてあれこれ考えてたことあったなー」と回想してしまうことでしょう。 普段はマイナスなことを指摘することがないみしま先生との会話を糸口に周りの進路を見渡してみると、「なぜ自分はAプラスをとろうとしたことがないのだろう?」とはっと気がついた自分。社会へ出て何十年経とうが、そうやって自分を見つめ直して何か忘れてないだろうかと振り返ることが大切。世阿弥「時々の初心」。今の自分の仕事でAプラスを目指しつづけるぞ と大人になった今でも心の中に小さなみしま先生を置いているそうです。ありがとう みしま先生。

 

■Vol.63 船内着と中華麺: 「今夜、誰もが平等に一杯の中華麺を食べた後、冷凍睡眠の長い夢へと旅立つことになる。」 あれ、どこかで観たり聴いたりしたことがあるようでない巨大宇宙船内の映画のシーンが浮かびます。そうですそうです これは地球人の未来を描いたSF寓話の世界観。 地球人の一員の優秀な?姉妹が宇宙船内で夜食の行列に並びながら会話するシーンなどが描かれています。ストーリーはSF小説ではあるのですが、なんだか近い将来、実際に地球人姉妹に起こりそうな会話が臨場感たっぷりでなんだかドキドキしますよね。

 

■ Vol.77 へなちょこディフェンダー: チビっこディフェンダーが中学冬季3シーズンをサッカー部員として過ごす爽やか青春ストーリー。カタールW杯2022の熱狂下、日本代表がドイツに勇猛果敢に勝利する様子と 当時のライバルチーム選手の太すぎる骨格と影が上から落ちてくる感とをシンクロさせながら情景描写豊かに描かれています。スターフォワード選手アリアへのリスペクト、逆転勝利時にはチリビーンズにフォカッチャをハシゴしちゃう、など。大人になった今でもこのとき培ったディフェンダー精神が自身の心の根底にあって辛いときも支えになるのでしょう。最近「クイーンズ・オブ・フィールド」というフランス映画を観ました。サッカーって地域から世界まで拡がりがあっていろいろな側面から楽しめるのが魅力ですね。

 

■旅行記を読むと自分も同じ体験をしたような気になり読んでいて楽しい。 時々、登場するぼのが可愛すぎる

 

■「ホテル登戸」は、LOVEさんの個性的なご家族の中でも、お姉さま「姉1」の強烈な個性が光るお話。「温泉3万円事件」は、大笑いでした。3万円がピッタリだったのもすごい。「いつから歌えたの」は、ファンの積年の疑問に答えてくれる回。「ゾウさんの」歌の話も、面白くぴったり決まりました。

 

■目立たないところでの、けなげな優しさや思いやりが身に染みました。LOVEちゃんいつも素敵なお話しをありがとう