LOVEのひろいばなし Vol.90「透明人間・その3」

ラヴ少女はそれでも諦めなかった。諦めるわけがなかった。いつの日か透明人間になりたい。家族の誰にも気付かれず、彼らのやっている「かっこいい」ことに仲間入りしたい。何度見つかろうとも、つまみ出されようとも、何度だって挑んでやるのだ。
さて、小学生は時間が有り余っているものである。
いや、誤解しないで欲しい。進研ゼミの付録のシーモンキーを育てなければならないし、たけのこの里のビスケットとチョコレートをギリギリまで前歯で分離させて食べたりもしなければならない。和室で山になっている渇きたての洗濯物の山にうずもれて昼寝も必須だ。姉のパシリでみかんを別部屋までとりにいったり、こたつとダイニング、一メートルの距離ですらリモコンの運び屋を務めなければならない。さらに父のパシリでたばこを買いに走り、おつりをくすねてファイブミニを買い、飲み、外のゴミ箱で証拠隠滅もしなければならない。その隙間をぬって学校と公文にも行かねばならない。
実の所、三女という職は多忙すぎて、本当の願いがなかなか叶わないほどだった。そう、本当の、私の、願い。それは至ってシンプルなものだったはずだ。
「家族のどなたか、どうか私のタイミングで一緒に遊んでいただけませんか」
やがてその思いがねじれ、「いつか必ず透明人間になって、忙しそうな 『おとな』たちの生活にどうにかして混ざってやる」という独自の思考回路が生まれた。
父はいつでも論文を書くことと晩酌で忙しかった。一切家事をしない父の分まで母はすべての家事をやりながらパートにも出ていた。七歳上の中学生次女はともだちのあれこれや「ししゅんき」で忙しいし、十歳上の高校生長女は、つねに「せいりつう」で忙しい。
辛いらしいので、「おはよう」とすら話しかけてはいけないとのことだった。リビングのソファで寝ていて暇そうに見える午後でも、間違っても「ねえねえ」などとセーラームーンごっこに誘ってはいけない。せっかく静かに昼寝しているティラノサウルスに話しかける阿呆はいないのである。漢字ドリルくらいなら隣で静かにやっている分には怒られない。だが「漢字ドリルをやっているフリをして、できる限り近づいてみよっかな〜!チラチラ」などといらぬ挑戦をすると「ああ、もう」と、うっとおしそうに部屋を出られてしまうので実につまらない。
そう、私以外の家族、「おとな」の皆さんは常に忙しいらしい。一方で、小学生でいること自体、時間が有り余っているに等しい私は、数年間にわたって透明人間チャレンジを諦めることがなかったとも言える。不可能に挑む気持ち、その灯火は決して消えることはなかった。
やがて長女が高校を卒業し、無事京都の大学に通い始めた時期のことである。
父の意向で「高校生はアルバイト禁止」だった我が家。大学生になった長女はまず京都のカラオケ屋でバイトを始めた。お金を貯めたのか、それともテレビの買い替えでお下がりをもらったのか。記憶が定かではないが、両親につづいて長女の自室にミニテレビが置かれることになった。「自室にテレビ。立場が違いますね……」とラヴ少女は家庭内格差に震えた。
また、長女は、我が実家から徒歩五分くらいの個人経営のレンタルビデオ屋でも働いていた。大学が休みの時期だけだったのか、それともダブルでバイトをしていたのか定かではないが、これが実に「おとな」っぽかったのだ。店頭のディスプレイで流すための映画最新作のサンプルVHSや、CD、洋画のポスターやパンフなど。とにかく彼女の部屋には、かっこいいものが溢れるようになった。
小学六年生の年に一年間イギリスに住んだ経験をもつ長女は、とにかく日本的な枠組みにハマる人間性(あと身長も)ではなかった。インターナショナルスクールがまだなかったそのころ、帰国後は地元の中学に進み、さんざん出る杭として打たれて鬱屈とした時期もあったという。その後、高校のブラスバンドでサックスを吹き、明るくなり、大学でスパークし、彼女は彼女らしさを取り戻したらしい。ここでいう、彼女らしさとは。私の視点から表現するなら、「でかい」という一言に尽きる。
長女は、身長も、態度も、度胸も、でかいのである。そして発想も行動もでかかった。
堂々と夜遊びをして夜遅く帰ってくることもあった。出かけていくときもこそこそしない。裕福そうな同級生がわざわざ京都から姉を車で迎えに来たりもしていた。父のおつかいがてら一緒にエレベーターを降りた私は、「じゃあね」と手を振って見知らぬ男の車に乗っていくその姿を見て「お、おねいちゃんが、おとこのひとと……」と絶対に人に言ってはいけないものを見た気がして、一人ハラハラドキドキしたりもした。十歳差とは、そういうものである。
そんな姉を、父は夜遅くに仁王立ちで玄関で待ち構えていた。たとえ引っぱたかれようと、姉はお構いなしで次々とピアスを開けた。バイト代で買ったいちごタルトのホールケーキを「絶対食べないでよ」と冷蔵庫に保管し一人じめして食べ切っていたのも、当時ちんちくりんな私にとっては、もう考えられないくらい偉大な所業だった。そんなことが我が家の冷蔵庫で許されるなんて、「アルバイト」というものは一体なんという権限を持つのだと。私がミニオンだったならば「ボス!ボス!」と叫んでちょこまかと後をつけていたに違いない。
そんな長女が、だ。
テレビを自室に設置し。
片隅に「SAMPLE」という表示が出る、レンタルビデオ屋の従業員しか手にすることができない最新の洋画VHSを持ち帰り。
ベッドに寝転がって、しかもヘッドフォンをつけて独り占めで見るスタイル。
この「かっこよさ」、読者の皆様に伝わるだろうか。
ラヴ少女、そのスタイルに触れたくて触れたくて仕方がなくなった。どうしてもその大人っぽさを、ひとくちでいいからかじりたくなってしまったのである。
長女の部屋は玄関の目の前にあった。私たち家族は、誰もが帰宅後にまた出かける理由がない限り、長女の部屋方面には行くことはない。リビングを越えて、玄関方面に唯一ある部屋。その一帯は、ティラノサウルスの住む森に等しい。基本的に、命が惜しければ立ち入ってはいけないエリアでもあった。
あるとき、長女が自室にこもっている日があった。また新作映画を見ているに違いない。
そうっとリビングから廊下にでた私は、母に見つかって「どこいくの」などと声をかけられないよう左右を確認してから玄関方面に向かった。
長女の部屋の前で、息を整えた。いくぞ。今から私は透明人間になる。バレたら死ぬと思って、命懸けで行く。
開閉式のドアが軋まないように、ドアノブを回して浮かせたのち、まず私は床に這いつくばることにした。以前より知恵もつけて、多少賢くなっている私だ。腕で床を進むことが「ほふくぜんしん」だということも知っている。指先でそうっとドアを押して開けると、ニョロニョロと陸上を進む小さめのワニが如く、左右に体を揺らしながら、私は這いつくばって入室した。
空気の温度変化を悟られてはいけない。ワニの体勢のまま、後ろ手で扉を閉めた。入室完了。ここまでは上出来だ。
以前は父の書斎にもなっていた姉の部屋は、六畳ほど、縦長の長方形だった。部屋を突っ切った奥に窓がある。眼下には公園と、JR京都線の線路があった。
そんな窓の手前、部屋の右奥の角にミニテレビが置かれていた。ベッドはさらにその手前、部屋を横切るように置かれている。長女は、私が入室した扉側に背をむけた体勢でベッドに寝転び、ヘッドフォンをつけて窓際のミニテレビに流れる洋画を見ていた。
ヘッドフォンといえど、今のように密閉型のものではない。ひと昔前の飛行機で配られていたヘッドセットみたいなものだ。映画が静かなシーンになろうものなら、私の体がズリズリと床に掠れる音などすぐにバレてしまうだろう。永遠に感じるほどの時間をかけて、私は「ほふくぜんしん」で進んだ。頭を上げるわけにはいかない。体をできるかぎり低くして、ヘッドフォンから漏れ聞こえる音に紛れろ。ズリ、ズリ。
いつなんどき長女が振り返るかわからない。私はティラノサウルスの巣の中に潜り込んだものすごい緊張感の中、最低限の呼吸で進み続けた。そして、私はベッド際までたどり着いた。
って。
これ。
……行ける限界まで、来れてもうてるやん!
なんということだろう。意外にもすんなりと、私は初の透明人間化に成功していた。
長女が寝転ぶ三十センチほどの高さがあるベッドの脇にいる、という物理的なポジショニングと同時に、まさかのボス部屋に忍び込むことができ、大成功をおさめたという精神的優位に立つこの状況。心中ドキドキが止まらない。私は脳内でガッツポーズを決めた。
練習の甲斐あって、透明人間としての能力はより高みへと至っていたに違いない。自分の存在感の薄さを逆手にとった、密やかなるこの自由。「世界中のみなさん、いま、わたしは、透明人間なんですよ」と高らかに勝利宣言をしたいくらいだった。
さて、ここからは静止画のような動画を想像していただきたい。
ワニの体勢から正座に移行した私は、姉の背後にちょこんと座ってリアル座敷童と化す。洋画は字幕があるから、音は聞こえないけれど、うんうん、見てればなんとなくわかる。読めない漢字はあるけれど、うんうん、なんかすごくかっこいい。画面の隅に「SAMPLE」って表示が消えないのも、すごくかっこいい。おねいちゃんは、レンタルビデオ屋さんの「アルバイト」というプロなのだから、当然のこと。うんうん、外国人が、暴力を。血が出ても、暴力を。うん、なんかよくわかんないけど、うんうん。
この時、私の視界には、左から、ベッドに横たわる姉の背中、その向こうにミニテレビ、その中には暴力を振るうハリウッド俳優、その向こうにマンション六階から覗く平和な空、そして右手にはかっこいいCDが並ぶ本棚、が映っていた。
だが、私自身は誰の視界にも映っていない。これが、とんでもない快感だった。
この快感を、私はいまだに他で経験したことがない。世界を独り占めしたかのような勝利を手にしながらも、とても静かな祝祭。そこにいるのにいない、という哲学。名付けて、ゼロの境地。
そのまま、おそらく三十分くらいだったとは思うが、私は恍惚としながら全貌のよくわからない洋画を見た。この三十分は、私の幼少期においてもっとも貴重な時間のひとつとして、以降記憶に深く刻まれることとなる。
「うわっ」
姿勢を変えた拍子に、視界の端に映り込んだ正座の座敷童が実妹だと気づいた長女は、実に普通のリアクションで気味悪がっていた。
「びっくりした、つか気持ち悪」
ありがとう、大きな「おとな」のおねいさん。私は、もうずっと前からそのリアクションを待っていたのですよ。あなたが思うより、ずっと前からですよ。え、どうやって部屋に入ったって?「ほふくぜんしん」ですよ。ふふふ、かっこいいでしょう……すぐさま部屋を追い出されながら、それでも私はこれ以上ない充足感に満ち満ちていて、実際微笑んでいたに違いなかった。
だって、やっと勝負に、勝ったのだから。
この日、私は初めて、死ななかったのだから。
夢が、叶ったのだから!
……透明人間チャレンジ、これにて、完結である。
小学生がいう「命がけ」。それはたかが数年の人生をもってして、彼らが挑む限界への挑戦のことである。ジャンケンだろうが、透明人間チャレンジだろうが。生死に直結する彼らの勝負の行方。そこにいたるまでの努力、工夫、何度死んでも立ち上がるその馬力と有り余るヒマな時間(主に夕方)。それは、誰にも奪うことができない偉大なる物語の種を無限に抱く、宇宙のゆりかごなのである。
もう一度言おう。日々無限に「生」を更新し続ける、小学生。彼らこそは、真の生命の猛者なのである。

ふー、長い三部作だった。スターウォーズ風のエンドクレジットで登場人物の名前を宇宙の彼方へ流したい気分です。星野監督も、込みで。
さて、我が長女は中学生の時からマドンナのファンでした。十五歳くらいから、なのかな。「おい、ライク・ア・ヴァージン歌ってみ」と五歳の私に仕込む、など。見様見真似で歌ったら歌ったで「いやいやバージンって、当たり前やろ」とケラケラ笑われたりしました。その時は意味がまったくわからなかったですけど、いじってもらえて嬉しいという気持ちだけは覚えています。もはやコンプライアンスの及ばない、ちょっぴりいつも悪質もしくは S気質の長女。いやいや、バージンとか五歳に言うなや、と今となってはこちらが言いたい。
ちんちくりんにとって、長女の部屋はやはり特に「かっこいい」異空間でした。もはや異国情緒、文明開花。「へえー、こんなんあるんすか!」とピアスの並んだアクセサリーボックスなど。あまりに幼少期から細部に渡って姉の持ち物をガン見しすぎていていたため「あ、これいらない、あげる」と大掃除タイミングでもらったどうでもいいくじらの尾の形のピアスなど、もう三十年も前のものですが、いまだに私のアクセサリーボックスに大事にとってあります。別に、つけないのに。あの日の憧れが、捨てさせてくれない。
ちなみに我が家では、次女も大学生になったのちに京都は西院のTSUTAYAで働きはじめます。ですから、それぞれの部屋にたくさん映画と音楽がありました。のちに私の音楽的嗜好を決めたのは、この頃の姉二人による英才教育のおかげだったと思っております。
サックスプレイヤーだった長女の部屋ではTHE BLUES BROTHERSやTHE COMMITMENTSのサントラが鳴っていて、スティングやマドンナも散々聴きました。後に一瞬だけベーシストになった次女の部屋からはタランティーノ監督のサントラをもらい、ビートルズやストレイキャッツ、スカなども教えてもらいました。
姉たちの趣味が、ちょうどよくポップで、ファンクで、ブルージーで、ビンテージで。とてもバランスが良かったのです。そこに九十年代のオルタナロックとアコギフォークが私の思春期に流れ込んできて、トータルで今の私の音楽はできているのだと思います。
長女は今でも発想が「でかい」です。最近マドンナがワールドツアーを発表しました。アジアが入っていなかったので、「じゃ、シアトル行くかな」と軽く言い始めた長女に、家族全員が若干引いています。