LOVEのひろいばなし Vol.89「透明人間・その2」

「絶対に負けられない戦いがある」
決死の思いで気配を消し家具の隙間にハマるという「命がけ」の透明人間化を試みたにも関わらず、しれっと次女に気づかれていた上に、家族全員にスルーされた小学生のラヴ少女。夕飯時に話題がふくらむこともなければ、家族内での少女の存在感が増すこともなかった。何事もなく、日常は続いた。
とにかく、圧倒的に、かなわないのである。
最年少の低身長で、脳も言語も最・未発達。小学校低学年の私にとって、一番歳の近い次女ですら七歳年上、すでに中学生なのだ。その距離感たるや。私にとって、私以外の家族全員=「おとな」なのだった。
ある日の放課後、次女が数名の友人を連れて帰宅した。珍しい。学ランやセーラー服を着た「おとなたち」はそう見えても実際は少年少女なので、まずはリビングで次々とこんにちはと母に挨拶する。「あとでお茶持ってくからね」と母が優しい声をかけていた。
そこそこに挨拶を済ませると、一同はゾロゾロと縦一列になって次女の自室となる和室へ向かった。我が家の廊下は父の本棚が壁一面に並んでいたので、少し狭い。先導する次女、セーラー服、学ラン、学ラン、セーラー服、セーラー服、ちんちくりん。全員が和室に吸い込まれた後、最後尾に紛れ込んでいるつもりだった三女の前で次女が立ちはだかった。
「入ってこないでね」
ストン、と襖が閉じられた。
いつも見ているはずの次女が、知らない友達と一緒に「中学生」という団体になることで、急に「おとな」に感じられた。そうか、この襖こそが「こども」と「おとな」を隔てる境界線なのか。向こう側で何が行われるのか、知りたい。何かいかがわしいことでも起ころうものなら、すぐさま私は母親にチクらなければならない。それは妹としての、家族の一員としての、任務ですらあるのだ。
言い訳を使命感に変えて、私はまたも「命がけ」で透明人間になることにした。今回は、スパイの風情すらある。
私は、まずわざと足音を立てて、両親の寝室の方へ進む気配を醸しだすことにした。寝室のドアを開け、わざわざ少し音を立てて、閉める。完璧だ。これで次女は私が寝室に入ったと思うだろう。
両親の寝室は和室の隣、廊下の奥にあった。ミニテレビがある部屋だったので、私はいつも両親の寝室に入るとテレビを見ながらダラダラと昼寝してしまったり、長居する。次女もそれを知っているから、妹ばらいができた、と油断するに違いない。
さあ、ここからだ。私は、寝室と和室の間、一メートルの距離を、今度はニ倍の時間をかけて、戻る事にした。息を殺して、廊下がきしまないように、静かに進む。やっとの思いで、襖の前に戻った私は思いのほか緊張してしまっていた。当然だ。これは「命がけ」なのだから。私がここにいることが次女にバレたら、またも「死」が待っているのだ。
廊下に窓はない。各部屋から漏れる微かな日光以外の光源はなく、昼間でもとても暗い中で「あははは」「ぼそぼそ」という中学生たちの気配が心地よかった。
襖の向こう、未知の領域から届く言葉尻に耳を澄ましてみるも、案外うまく聞き取れないものだ。いっそ耳をつけてしまいたいが、襖が揺れて音をガタガタと立ててしまうだろう。ならば、と耳が触れない距離ぎりぎりまで上半身を近づけてみると、今度は体の重心を保つことが難しい。うむ、この体勢、長くはもたないぞ。
一体、どんな大事な話を、どんな小慣れたトーンで話しているのだ。
幼い私にとって「中学生」は、少女漫画で見た憧れの学生姿そのものだった。もちろん彼らの瞳の中には星が数個浮かんでいるだろうし、髪が風になびくだけでも恋がはじまるはず。まさに和室の中はいまこの瞬間も「青春」真っ只中のはずだ。情報源が少女漫画しかない三私は、わからないなりに想像してみた。あの娘たち(ただし次女以外)は華やかな社交界に初参加する貴族の娘たちの塩梅で、無骨な男子たちはさながらタキシード仮面くずれのようなものだろうか。モヤモヤ、キラキラ、モヤモヤ、キラキラ。得体の知れない憧れがラヴ少女の胸の中で渦巻いた。
もっとうまく聴こえないかと角度や体勢を調整していたら、リビングの方から氷の音が聞こえてきた。まずい。お茶の準備ができたのだろう、母が来る。
両親の寝室に隠れるわけにはいかない。私は今、まさにそこでミニテレビを見ているはずなのだから、今ドアを開け閉めしてしまうと、カモフラージュが崩れてしまう。とすると、さらに廊下を奥に進むしかない。
母がリビングを出た気配がした。時間がない。
我が家の廊下は、両親の寝室の前でちょうど九十度曲がって、奥へと続いていた。そこから、距離にしておそらく三メートルほどの直線。突き当たりは物置で、簡易的なカーテンが上から吊るされて目隠しになっていた。突き当たり右手にはトイレと風呂への入り口があった。
もうこのタイミングなら物置のカーテンの中に隠れるのが理想だが、カーテンが揺れてしまうに違いない。あと何より、あそこは怖いから、ちょっと無理かも。
そう、私は普段からこの廊下の一番奥の物置エリアが苦手だった。カーテンの向こうから何かが出てきそうな感じがして、トイレに向かうときもなるべくダッシュ、物置前を急カーブして右手に滑り込むことにしていた。小学生は時に想像上の仮想敵も作るが、それもまた命がけの設定なので、ぼうっとしていると物置から出てくるソレに引き摺り込まれると私は思い込んでいた。だから、ちょっと無理。
じゃあいっそトイレまで行こうとも想ったが、残念ながら躊躇している間に時間がなくなった。カランコロンと揺れる氷と、母のスリッパの音が近づいた。もう、あそこしかない。くぼみが目に入った。
この廊下の右側には、一箇所、壁にくぼみがあった。古い給湯器を設置するためのスペースで、大人の腰ぐらいの高さに壁付けされた給湯器の下は、数本のパイプが床に伸びているだけ。若干の隙間があったのだ。学年で一番体が小さかった私でも、さすがに収まりきらないぐらいの隙間だが。時間的にそこしか選択肢がなかった私は、なるべく落ち着いた足取りで素早く静かに進み、身をかがめてくぼみに身を潜めた。給湯器のパイプにまいてあるクッションの感触が、背中に当たった。呼吸を浅くし、腹をへこませ体をペラペラに薄くして、壁と一体化した私は、微動だにせず宙を見つめて背筋を伸ばした。
「お茶ですよ〜」
次女が襖を開けて、母が大きなお盆を渡した。真っ暗だった廊下が、和室の向こうのベランダから燦燦と降り注ぐ西日で溢れた。まぶしい夕方の光の中で、お盆を渡す母と中学生たちの青春のシルエットだけが影絵のように揺れた。
このとき襖を開けた次女の目には、左から、両親の寝室のドア、お盆を渡す母、その後ろに伸びる廊下と、壁沿いにしゃがみ腹をへこまして背筋を伸ばした違和感のある妹、が映っていたはずである。
「わあ、ありがとうございます」「やったあ」「おかわりは取りにきてね」「はーい」。母が襖を閉じると、再び廊下は闇に包まれた。リビングへ母のスリッパが帰っていく音をしばらく聞いて、私は胸をなでおろし、やっと深い息をした。
間一髪だった。息が止まるかと想った。けれど機転が効いた、よくやったぞ、私。母も気づかなかったし、姉にも注意されなかった。同級生たちもお盆のお菓子に気を取られていた。ああ、なんという達成感だろう。とうとう、私は透明人間になれたのだ。努力の甲斐あって、私はやっと透明人間の仲間入りを果たした。
襖の向こうでは、より和やかな笑い声が響きはじめた。音楽もかかっている。会話はさらに聞こえなくなってしまったが、音楽のおかげでこちらの気配も紛れることに安心した。少し冷静さを取り戻した私は、さきほど横目で見た情景を思い出していた。見間違いでなければ、お盆にのっていたあのオレンジの袋は。
我が家では、ジャンクなものを頻繁には与えてもらえなかった。それなのに。あの袋は確かにカルビーのポテトチップスだった。いつもは禁止のポテトチップス。あんなに大きな袋のまま渡されるなんて。私は、中学生という「おとな」の世界の威力を思い知った。苛立ちすら覚えた。ちくしょう、この中で、今どんな光景が繰り広げられているのだ。
襖の左右を見てみると、端っこの壁との隙間から少しだけ光が漏れていた。うまくのぞけば、中の様子が見えるかもしれない。ポテトチップスを、一枚ずつ大事に食べているのか、それともマリーアントワネットよろしく貴族の娘たちは享楽的に食い散らかしているのか。悔しい。すぐさま確認しなければ。おこぼれでもかまわない。私も社交界の一部になりたい。
そーっと私は体をズラしながら、光が漏れている襖の隙間に自らを持っていった。目を細め、のぞきこむ。隙間が細すぎて、中が見えない。なんとなくセーラー服の紺色と、緑色のスカーフの色ぐらいは見える。あと少しだけ隙間を開けることができたらいいのだが。もう少しだけでいい、開けたい。いや、襖を触るな、バレるぞ。
自分との葛藤がこんなに苦しいものになるとは。私はこのポジションのまま、大変長い時間を過ごした。少なくとも数曲分は過ごしていたはずだ。隙間から覗きこむ頭の角度を固め、聞こえない会話や笑い声に耳を澄ませ、全身の感覚を研ぎ澄ませたまま、私は自分と戦った。
最終的には、慢心してしまったのだと思う。数曲分もここに張り付いているのに、中の誰にも気づかれない。自分はやっぱり透明人間に向いているのだ、と自信が湧いてしまったのだ。
いよいよ、もう長い間ためらっていた指を、襖の取っ手にかける瞬間が来た。シミュレーションは完璧だった。まず、そうーっと指をのせる。襖がガタつかない程度に若干隙間を広げるだけでいい。さあ、やるのだ、透明人間よ。いざ、指を乗せ……「スターーーーーーーーーーーーン!!」。
襖が開いた。全開だった。
「あっち行ってくれる?のぞかないでくれる?」
次女が立っていた。
「あ、妹?」「うん」「へー、こんにちはー」「ちっちゃ」「かわいいね」などと、親切な貴族の娘たちがポテトチップス片手に話すのと、私が「へへへ……どうも」とヘラヘラするのと、次女がまた襖を閉めるのが全て同時だった。
あたりは一帯、また闇に包まれた。私は長い廊下をリビングに向かって、心をなくして静かに歩き始めた。
……死んだ。
またも、勝負に負けてしまった。小学生にとっての「命がけ」は繰り返す生であるとともに、繰り返す死でもある。そして、お母さん、なぜ、私はポテトチップスがもらえないのですか。
「別にダメじゃないけど、体にいいもんでもないからね」
なぜだ。なぜ、中学生は、袋ごと。そして、次女よ、頼むから早めに教えて欲しい。いつから気づいていたのだ。
ラヴ少女の、命がけの透明人間勝負は、さらに次回へと持ち越しとなる。

まさかの三部作です。透明人間チャレンジ、まだ諦めないから。