LOVEのひろいばなし Vol.61「作曲の転機」

二百曲ぐらいあったんじゃなかったでしたっけ。
いわゆる「コンペ」と呼ばれる、作曲家や作詞家として他アーティストに楽曲提供を行うときのコンペティション。ご自身のアーティスト活動のみならず、作詞作曲家として、井上慎二郎先生が今まで世に送り出された楽曲はものすごい数に及びます。
反町隆史さんのポイズンもそのひとつ。「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ〜」というサビを、私は時々タイムリーな時事ネタを挟んで替え歌にして楽しんでいます。「やめなさいよ」とセルフ突っ込みするまで一セットとして歌っております。
数年前、実は私も時々コンペに曲を提出していた時期がありました。
「そう簡単に採用されないのねえ、ぽりぽり」
たくあんをつまみながら、私は途方に暮れておりました。というのも、近年ではほぼミックスまで完成している曲が出回って採用されているらしく。自分の、未完成なデモらしいデモでは力不足なのだ、と思い知り。編曲力を上げるにしてもさすがにミックスまではできないし、と途方に暮れ。そんなタイミングだったと思います。
「参考までに、聞いてみる?」
引越した先で遭遇し、「今度飲もう」の口約束を意外にも早く叶えた我々。焼き鳥のくしを片っ端から食していく私に、古き友人「しんじろうくん」こと井上慎二郎氏が言ってくれました。コンペってやつはコツがあるのだよ、と。
「そうなんだ!聞きたい。超聞きたい」
デビュー当時、よく対バンしていたラムジ。メンバーは二人のユニットでした。私の二〜三歳年上のボーカルのやまちゃんと、その少し年上に見えた「しんじろうくん」がプロデューサー兼曲書きを担当されていました。 こざっぱりとした好青年感があって、ちょっと距離感があって、とても落ち着いていて、ギタリストだけどなんかギタリストっぽくない。五〜六歳年上の無口な職人、みたいなイメージ。
再会してみると、当時思っていた以上にカジュアルで、気さく。結果初日の一杯から我々は延々と音楽話が尽きませんでした。どうやったらいいのか、こうなってんだけどアドバイスはないか、などなど私も畳みかけます。「意外とあなた色々気にしいなのねえ」とか言われたりして、その途中でコンペ話も相談したのでした。
翌日、さっそくデータをメールでもらいました。当時からラムジ楽曲の胸キュンメロディが好きだった私は、その作曲の秘技を盗んでやるのだとワクワクしながら「しんじろうくん」の採用楽曲を二百曲、かたっぱしから聴きました。
ありとあらゆる有名どころの曲が入っていました。すべて、めちゃくちゃよくできていて、イントロがすごい、サビメロがすごい、アレンジがパッと聴いてすごい、構成が見事、など。楽曲が際立つ工夫はいくつもあったのだけれど、うち半分ぐらいでしょうか、テクニカルなことを一切忘れてしまうぐらい、最初から最後まで、心が揺さぶられる曲がありました。
デモの段階から、何かが違う。キラキラしてる。それら「なぜかグッときてもうた」曲を並べて感想を伝えると、「しんじろうくん」は言いました。
「ああ、やっぱりわかるんだねえ。それ全部、人の人生が関わっているリアルなやつ」
東方神起が兵役に行く前の、とか、うちの娘が生まれたときの、とか。誰かの大きな願いや愛が込められた、人生の転機から生まれていた曲ばかりを私は選んでいたようです。背景を聞いてからさらに曲を聞き直すと、歌詞のひとことひとこと、メロディーの抑揚など、すべての辻褄がエピソードの起承転結と合うようでした。すべてが歌詞になってるわけじゃない。けど、すべてが聞こえてくる。
「その違いが分かるのなら、あなたもそういう曲、書けるから」
今思うと、この言葉がどれほど私に自信をくれたか。
別にその瞬間に自信が生まれたわけじゃないけど、あの時から私はまた作曲を好きになり、没頭できるようになったのです。振り返ってみると、あれが作曲の転機だったと思う。
その日から遡ること数年。
十周年のタイミングで、私は作曲疲れしていました。アーティストらしく「あああ僕には才能がない!」とか、壁をグーパンチするようなメンタルスランプ風のものではなく、とにかく、自分自身のやり方に飽きてしまっていたのだと思います。作曲においては「一人の限界」みたいなつまらない場所に私はいました。
福島県相馬市での活動も大きいです。子ども達のためにイベントを毎年作っていました。たった一日のために考えて決めることが本当に多くて、一生懸命相馬のたくさんの大人の人たちとひとつのプロジェクトを苦労しながら楽しんで作っていたのです。それはやがて、音楽を一曲作るよりもよっぽど立体的で多次元的な、一筋縄ではいかない創作になっていきました。また、それだけ大変なのに直接的に誰かの役に立てるという実感がありました。そして、最終的に、その相馬のために書いた「SOMA BLUE」という一曲で現地の高校生のブラスバンドとレコーディングをしたことで私の音楽観は決定的に変わりました。
震災を経験した子どもたちと現地の音楽室で録音したブラスバンドです。福島のたくさんの人たちの人生が、めぐりめぐってこのブラスに注ぎ込まれたようでした。
震災以降の、彼らの家族、親族、先生、友達、先輩、後輩、ご近所さん。近しいところで亡くなってしまった人もいます。けど、誰の代わりでもなく十代の彼らは最大限自分の人生を生きようとしていて、高校三年生でもうすぐ社会に飛び出ていくタイミング。その直前にレコーディングのために集まってくれて、初めてのヘッドフォン録音にキラキラきゃあきゃあ照れながら、青春の全力をブラスバンドという音にして、一生懸命演奏してくれたのです。
曲を書いたこと自体は自主的だったけど、それ以上に、レコーディングして出来上がった音源にも、そのプロセスにも、なんというか、価値がありすぎ。私がどうこうじゃない。彼らの価値がありすぎ。もう、これ以上、どんな曲を書いても、この音楽には私はもう一生敵わない。どこかでそんなふうに感じていた気すらします。
また、「SOMA BLUE」 が収録された十周年直後のベストアルバムには、新録曲としてもう一曲「Time Flies」を書きました。もともと他のアーティストに提供するために書いた曲でしたが、福島のたくさんの親子をみていたからでしょう、私自身の子どものころを重ね合わすことができて書けた曲です。これもめぐりめぐって福島のおかげだったと思います。
そして、私はいったん燃え尽きたのかもしれません。まだ「人生最後の一曲」を書いた実感なんて全然ないし、まだまだなのに、それでいて、これ以上、なんのために曲を書くの?という茫洋とした感覚。
そう思っていたところに、「しんじろうくん」と再会。一人で抱えきれないものを、ぶん投げると受け取ってもらえて、より良くして返してもらえる、というありがたいキャッチボールが徐々に始まっていたのです。
その直後から、まるで今度は人生が毎月転機、みたいな時期があり、「曲でも書かないともうやってられんわい」周期に突入。とにかく数日おきに明け方にデモを送り付けるようになりました。
やっぱり音楽は音楽からは生まれない。人生から生まれるみたいです。もしくは、私はそういう曲に震えるタチなのだと思います。気づけば、もう一度私は、私自身の人生の中から、家族や友人のために一曲ずつ没頭して書くようになっていました。作曲を嫌いになりかけていたので、本当によかった。
で、ミスターからの返事は、毎回、実に率直で短くて、正直でした。彼は、ほとんど語りません。その代わり、メロを一音だけ変えてくる、とか。そしたらめちゃくちゃ良くなってる、とか。そういう、技術で会話をするタイプでした。ですが、その技術がめちゃくちゃ心がこもってる。おかげで、職人としてハートを込めて仕上げるやり方、その喜びも私は今学んでいます。
本当に偶然のような再会でしたが、後で聞いたら、「しんじろうくん」自身も、いろんな音楽の仕事のやり方に少し飽きていたタイミングだったとか。情熱を傾けられつつ、ちゃんと仕事としていい作品を残せる機会が欲しいタイミングだったと言っていただきました。
あの日の焼き鳥屋。兄さんはビールをグビグビ飲んでました。すげー早い。めっさ飲む。私はそんなに飲めませんので、ひたすらレバーをもぐもぐ。
L「ちょっとしんじろうくんさあ、次から曲できたら送りつけていい?」
慎「うん?いいけど」
L「はっきりいうて。何があかんか、何が足りひんのか、はっきりいうて」
慎「お、おう」
L「ちょ、頼むわ。厳しいくらいはっきり言われへんとわからへんのよ。私の頭が悪いんか拒否るんかわからんけど、プロデューサーのひとたち何いうてるんかほんまに日本語わからへんときあったんよ」
慎「ていうかさ、ねえ、あなた思いっきりタメ口だよね」
L「ごめんねえ年上やのに。まあでもちょっとだけやんね?」
慎「いや、どうやろ〜ちょっとて〜(関西弁のモノマネ)」
L「やまちゃんよりちょっと上やったよね?わたし一応先輩リスペクトするとき‘さん’だと距離感が遠すぎるから‘くん’つけるようにしてるんだよ。ほらパンクスとかジャニーズもそうじゃん」
慎「ああ、そのパターンね。よくわからへんけど〜。わ、からへん?わか!らへん?(発音の練習)」
L「で、いくつになったん、しんじろうくん」
慎「てうか俺、あなたの十六歳、年上だよ」
L「……は?」
慎「俺、二十代の時初めてサポートしたの、吉田拓郎さんだよ」
L「……は!?」
逆に聞きたい。何を食らって生きたらその若さを維持できるのだと。いまでこそ少し落ち着いたけど、数年前の金髪だったときとか、マジで。なんなん。
井上慎二郎氏。ド・先輩でした。十六年分先を行っている経験値をもってして、今わたくしの作品の共同プロデュースを務めていただいております。
師匠の六弦、このメルマガの前日は二人でのアコギデュオワンマンライブが無事終了しているはず。お師匠、お疲れ様でした。最近は、「しんじろうくん」を一生懸命「お師匠」と呼び変え、「です」 &「ます」を多用するようにしています。
ですが、一度できあがった関係はなかなか矯正が効かないらしい。タメ口が、治らない。リハ音源聞いても、「ちょっと何いってるかわかんない」とか「毎回そのフレーズ弾いた後のドヤ顔やめて」とか、まったく治ってなかったです。
ちなみに最近では逆に「LOVE姐さん」と呼ばれるようになってきました。十六歳年上の大先輩に、姐さんと呼ばれるこの気持ち。誰かわかっていただけます?おかしいでしょ。世話になってんのは完全にこっちなのに。
まやかしやギミックは通用しません。「なんだこれ!!って感動して涙目になるとかはないけど、まあアリだね」とかマジで実直な感想がくる。今後、どんなモードで作曲したくなるかは私自身もわかりません。ですが、お師匠のおかげで、非常に高いハードルをインストールしていただいたようなものですので、私は今後も私は実直に一六年分ビハインドから前進できる気がしています。
お師匠はいつも換気扇の前で作曲するんだそうです。
私はいつも床でゴロゴロ半分以上寝てから作ります。
はたからみたら、チーム「ただの暇人」かもしれませんが、師匠、今後とも、よろしくご指導、お願いいたします。関西弁の発音だけは、私がご指導差し上げます。

お師匠による「どちゃくそええやん」印。今のところ「1000日の夏」が一番。ハードルが高いんですわ。
話は変わりますが、すごいことを聞きました。「スーパーコンピュータ京」を作ったのは、慎二郎さんのお兄様だそうです。実兄が開発責任者。すご……。ご自身も子どもの頃から神童だったそうですが、お兄さんが数学に行かれたので自分は音楽にきた、と。
すご……。だからか、ミックスまでできるそのエンジニア脳はその血統か!!
作曲のモチベーションはいろいろあります。リリースのモチベーションとは別です。今年は十五周年なので、リリースするかあ、てことは、じゃあ曲かくかあ、という順番です。
でも、いざ曲を書くモチベーションはまた別。最近はドラマや映画を見て書くことも増えてきた。新曲We Only Live Onceは、フジロック決まった、じゃあそのイメージで書くかあ、リリースしちゃおっかあ、の順番でした。が、いざ書き始めると、全く別のモチベーションで内容が出来上がりました。
数年経ったら、また裏話を明かしましょうね。本当はご時世とは全く違うところから生まれて、ご時世にピッタリ合ってしまって、私自身がゾッとしたリリースの七月だったのですよ。妙なものです。
次のライブも発表になりました。毎回違う企画なので今年の「十五のお礼参り」は面白い。次回もお楽しみに!