LOVEのひろいばなし Vol.40「まこの手紙」

私には、妹がおります。
私自身、破天荒3人娘の末娘ではありますが、2011年の5月、突然話しかけてきたあの子はもはや福島にできた私の妹だと思っております。
2011年、5月。出会った当時は14歳。中学生。
募金箱を首から下げた学生さんたちの団体が東京FMのスタジオに待機していました。自分の番組を終えた私は、そのうちの1人の募金箱に募金をして、「どこから来たの?」と聞きました。
「福島県相馬市から来ました」
「そうなんだ」
「…(ジロジロ)。お姉さん、芸能人?」
「は?いや、微妙に違うっつうか。えーっと、ミュージシャンだよ」
「(食い気味で)相馬に来てくれますか?」
「え?あ、うん?」
今でもあの時のハキハキとした、というか独特の圧のある、まこの態度を思い出すと笑ってしまいます。当然ながらまだ彼女をよく知らなかった頃のことです。震災直後ですから、ちょっと気を使っている大人たち。とはいえ一応ハキハキ関西人の私。を圧倒する、14歳の東北人。すでに大物の予感です。
後で聞いたら、「本当に来るなら来ればいい」ぐらいに思っていたそうで、私と私の相談役ことマネージャー兼事務所社長に「こういう者でして。お越しの際はご一報どうぞ」と名刺を渡してくれたお父様も、まあ堂々と、飄々とした、愛嬌のある方でいらっしゃいました。まこの父、羽根田先生(当時は中学校の教諭で福島県のバレーボールの名指導者でもいらっしゃいました)。この父にして、この娘あり。
今となっては、羽根田家のこたつにて、巨大なゴールデンレトリバーがハフハフとよだれを垂らし、ばあちゃんがテレビを見ている横でも、締め切りに間に合っていない歌詞をかけるようになった私です。そういう意味では、先方も親戚の叔母、もしくはいとこ、ぐらいのテンションで迎えていただけるようになったのではと思います。
まこちゃんとのエピソードは数知れずなのですが、震災直後の街並みを一緒に歩いたり、毎年の心の揺れ動きを見たりなど、私は彼女から学んだことがとにかく多いです。
確か彼女が中学生の頃。「うちは家も無事だったし、家族もなくなってないから、被災者だとは思ってない」と話していた彼女。本心からそう言っているのもよくわかりましたが、それでいて飲み込んだ本音も聞こえてくるような、そんな気がしました。
多くの子どもたちが、子どもでいられたはずの時間に、少し早く大人になる必要があった。実は、私は、それ自体は当時から「可哀想」だとは思わなかったのですが、というより彼女の感性と人間性の高さに対する尊敬と誇らしさ。そして、彼女がそんな考えに至るに必須だったであろう、立派な背中を見せ続けた大人たちの存在を思わされたのです。そして、こんな私でも何かを埋め合わせることができるだろうか、という願いですかね。とにかく抱きしめたくなる気持ちでいっぱいになったことを覚えています。
毎年ご支援、応援をいただいている皆様はご存知の通り、私がまことの出会いをきっかけに主宰するようになりました、「今日ここにいるという事」ライブ。こちら、関西と東京で「相馬市の小学校の入学式に文房具を送る音楽イベント」として開催していたものは、今では「相馬市の皆さんと現地で開催する町おこしフェス」へと発展しています。
そして、この間、まことのご縁はより姉妹感を増していきました。
「え?来るよね?」と高校の卒業式は自動的に私のスケジュールに組み込まれ。まこの母の隣で、緑の髪の毛で保護者席に座った私はうっかり相馬高校の卒業アルバムにものってしまいました。光栄です。
その後も、大学受験のときは、前日にまこが東京の我が家に泊まりにきたので、翌朝はおにぎりと味噌汁で送り出し。大学の卒業式には、生放送終わりにダッシュで横浜へ向かいました。
そしてちょうどその頃、2018年は、いよいよ今日ここライブを相馬で開催する最初の年だったのです。
私も相談役もこの規模でのイベント開催は初めてだったので、右も左もわからぬまま。とにかく、子どもたちをお迎えするので怪我なきよう、ライブが素晴らしいものになるよう。現地の、チーム町おこしのおじさんたちや教育委員会と一緒に準備をしました。直前の数ヶ月、連携は毎日続いて、直前の1週間はマジでカオスで。そしていよいよ現地入りした、開催前日のこと。
当時、大学卒業直前のまこはボランティアスタッフとして東京から地元に戻り、スポーツアリーナそうまでの前日リハから私に同行してアシストを務めてくれていました。なんなら、まこのほうが落ち着いていて、うっかりその夜の夕飯どころを準備し忘れていた私と相談役を横目に、「出演者のみなさん、先に連れて行っておくね」と居酒屋を用意してくれました。
私が後から合流しましたら、すでに友情あふれる素晴らしい雰囲気ができあがっておりました。中村中ちゃん、ドラムス山口美代子さん、車を出してくれた美代子さんのお友達ボランティアさん、cobaさん、パーカスのスティーヴ・エトウさん。さらに音速ライン藤井さんをはじめとした、福島中央テレビ二畳半テレビチーム...のなかで、堂々と会話を転がしている大物大学生、まこ。世界のcobaにツッコミを入れています。なんて恐ろしい子。
やいのやいのと夜はふけて、みんなのお腹も膨れはじめた頃、彼女がふと言い出しました。
ま「LOVEちゃんに手紙を書いてきたんだけど」
L「え!なんで!」 ま「これまでお礼言ったことないなと思って」
L「うそでしょ!!」
一同「うえーーーーーーい!」(カメラを用意しはじめる人たち)
ま「え、今読むつもりじゃなかったんだけど?渡そうと思って」
L「いや、そりゃそうだよね」
中村中「ちょっとじゃあ私先に読もうか?」
一同「なんで!!笑」
中村中「先に確認する人がいるといいじゃない!!ここでまこちゃんが読むべき内容かどうか」
一同「えええええ?笑」
中村中「まこちゃんが良ければ、私が」
ま「あ、じゃあ、どうぞ」
私にとって盟友である中村中ちゃん、「失礼します」といって、手紙を開いて静かに読み始めました。一同はざわざわと各自飲みに戻ったのですが。
中村中ちゃん、ぽろぽろぽろぽろと涙をこぼし始めます。そして読み終えると、静かに手紙を閉じて、涙をふいて、深呼吸しました。しっかりとまこのほうに向き直ります。
中村中「もし、まこちゃんが良ければ、だよ。いやじゃなければ。そしてLOVEちゃんに何かしらのお礼を伝えたいと思っているのなら。明日のステージで、この手紙を相馬のみなさんの前で読むのも、とても素敵な御礼の形になると思うわ」
まこ「…えええ?」
中村中「ゆっくり考えてみて」
coba「では、その間に。失礼、もしよかったら私もそのお手紙確認させていただいてもいいですか」
一同「なんで!!!笑」
というわけで中ちゃんに続いてcoba氏もまこの手紙を読んで言葉を詰まらせている様子でした。
coba「うん、無理にとはいわないけど、もしあなたがそうしたいと思うなら、私も中さんの案は素晴らしいと思う」
私としては、すべてのステージの段取りと演出を複雑に組んでやっとこの日までこじつけているので、どこに入れるねん!どないすんねん!と。私が確認していないものをステージにあげて大丈夫か?と。もちろん悪いことが書かれているわけはないけど。
外部から来た私たち、現地の協力者、現地のお客さんの中でもいろんな立場や考えがあります。震災の話題に触れる場合、とにかく誰1人として傷つかない言葉や、それを踏まえた人間性を私が確信している人やミュージシャンしかステージにはあげられないと、責任者の私は思ったものですから。この時はまだまこのことを「子ども」寄りで見ていたのかも、と今なら思います。
とやりとりしている間に美代子さんとお友達も手紙を読んでます。ていうか、私以外が全員読んでいます。
中村中「じゃあ私たちで演出、考えるから。ねえcobaさん」
coba「決定」
ということで、まこが同意すると、あれよあれよと中ちゃんが演出を引き継ぎ、私以外の出演者のみなさんが全員で入れどころを考えてくれました。そして、スティーヴさんは、一連の流れをカメラに収めながら僧のように穏やかに笑ってました。
あの年、初めて相馬で開催した今日ここライブのステージで読んでくれた、あのまこの手紙から、今日で4年です。早いです。
当時、東京の不動産仲介屋さんに内定が決まっていたまこは、「やっぱり福島県警を受け直す」と新たな夢に挑み、無事立派な婦警さんになりました。職質の練習、上手でした。
そして、2022年、素敵な女性に成長した彼女は、いわく「優しくてちょっとぶちゃいくな旦那さん」と結婚いたしました。
私は、とても嬉しいです。
全国の皆さんに大事なお知らせがあります。これまでクラウドファンディングで制作していたSOMA BLUE絵具やタイル、現地への還元というかたちでのみ使っておりました。ですが、このたび、現地の皆さんから「子どもたちが気軽に使えるものがほしい」とのリクエストをもらって、新たに広く皆さんに手にとってもらえるマーカーを作りました。
SOMA BLUE MARKER、といいます。
ぜひ、発売日が決まったら、一緒にSNSなどでお知らせ、ご協力ください。「今日、ここから、またできることがある、描ける夢がある」ということを、広くみんなで伝え合っていきたいです。色あせないのは、希望です。
あの時の手紙を、私は毎年3/11に読んでいます。そして、いつでも、今日、ここから、スタートをもう一度切るようにしています。
あの日、1日子どもたちははしゃぎ、大人たちは汗をかき、大笑いし、走り回って、歌って踊って夕陽が落ちて。という平和を背景に、私は白目をむいて駆けずり回ってからライブに突入しまして。そんな1日の最後のこと。
スポーツアリーナそうまでは、アンコールに現地の高校生ブラスバンドとコラボする1曲、SOMA BLUEが控えていました。出演者一同ステージに並び、観客の皆さんは思い思いに体育館に座って、誰1人途中で帰ることなく、見てくれていました。
中ちゃんの演出どおり、まこは手紙をもってステージに上がってきました。最初は完全にアドリブで、マイクに向かいました。手紙を読み終えた後、会場の皆さんからの拍手は止まりませんでした。
今日のひろいばなし、長くなりましたが、今年はぜひ、私と一緒に、まこの手紙を読んでやってください。時間がある時で構いません。私としてはこっぱずかしいところもございますが、彼女の思いが4年後の未来、2022年の春に今一度届くことの方が大事な気がしたので、以下全文です。よろしくお願いします。
震災から11年、今年も祈りを捧げます。
お互いに、どうか健やかな今日でありますよう。
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「私は福島県相馬市出身で、ずっと高校まで相馬だったので、ここにいる方で、私を知っている方、私の家族を知っている方は何名かいると思います、羽根田まこです、よろしくお願いします。
(会場、拍手)
LOVEちゃんに今紹介された通り、中学校2年生のときに東京に募金活動で行った東京…東京FMにいったときにLOVEちゃんに会った時に、募金をしてくれて、その時に私がLOVEちゃんをナンパしたんですけど。
(会場、なごやかな笑い)
そのときになんのあれもなく…田舎者って芸能人のオーラとかすごい感じるじゃないですか。それで芸能人?相馬きて?とただ言ったんですけど、それが今こうして現実になっていることはすごいことだし、SOMA BLUEという相馬の歌ができたことはすごいことだと思います。えっと…何を話したいかというと。えっと…。
東日本大震災を経験して、震災の捉え方はやっぱ市民でもそれぞれ違うと思いますし、いろんな思いがあるんですけど。震災に対する私の思いと、あとLOVEちゃんへの感謝を、わた…私なりの言葉で。
手紙にLOVEちゃんにしてきました。で、今ここでLOVEちゃんに手紙を読みたいと思います。ちょっと私ごとなんですが、みなさまに一緒に聞いてもらえたらいいなと思ってます。お願いします。
(会場、拍手。まこ、手紙を開く)
7年前のあの日、LOVEちゃんに’相馬に来てよ’、そう言った自分は人生で1番のファインプレーをしたと思っています。LOVEちゃんにちゃんとありがとうを伝えたくて、記念すべき7年目の今日、手紙を読んでいます。
7回目の3月11日、あの日からこの日付が特別な日となりました。上京したバイト先で、2時46分に帽子をはずして、深々と頭を下げるおじいさんがいます。その姿を見るたびに胸が熱くなります。まだ、風化されていないんだと。
3月11日になると、全国放送のテレビで特集されます。被災地の今、と。相馬がテレビに映し出されるのは嬉しいものです。でもその特集はいつも悲しいBGMが流れます。涙している漁師が映っています。切ない言葉が語られます。7年目の今日も。
相馬市は一生、日本の被災地なのでしょうか。相馬市民は一生、日本の被災者なのでしょうか。
相馬に明るい話題を、たくさんの笑顔を、明るい歌を響かせて、テレビに映してもらえないだろうか、と私は思います。だからLOVEちゃんから’SOMA BLUE’と聞いた時には鳥肌が立ちました。
相馬から新しいものを発信できる。素晴らしいと思いました。いつも誰かに守られて、自分から何もできていない私もいつか、いや、今すぐにでも相馬から’SOMA BLUE’を発信する人になりたいと思います。
その日が遠くても、自分の力が無力でも、’SOMA BLUEね’と世界中から言ってもらえる日を私は信じています。
LOVEちゃん、中学生の私の言葉をうけとめて、本当に相馬に来てくれてありがとう。7年も相馬を思ってくれてありがとう。ずっとずっと変わらず、支えてくれてありがとう。今日ここライブで、一瞬でも相馬を思ってくれた観客の皆さん、ありがとうございます。たくさんの募金をありがとうございます。本当にたくさんの愛を、ありがとうございます。
7年前のあの日に言ったひとことが、今日をつないでくれているとしたら。LOVEちゃんの人生で相馬が大切なものになっているのなら。あの日、あの時の、たったひとつのきっかけに私がなれたことを誇りに思います。7年前の自分、LOVEちゃん、すべてにありがとう。
LOVEちゃんの行動は、言葉は、本当に素敵でキラキラしているなと感じます。LOVEちゃんの歌はもっともっと素敵でキラキラしていると思います。尊敬する人、LOVEちゃん。LOVEちゃんのような生き方をしていきたいと思います。
私もSOMA BLUEの話を聞いて、夢ができました。その夢を形にできるように、一歩一歩少しずつ歩んでいこうと思います。
‘災いを転じて福となす’という言葉がありますが、そのように、起きた出来事は変えられないから、向き合い続けることから逃げずに、今ある環境、仲間への感謝を忘れずに、未来のために、今ここからがんばりたいと思っています。
ご清聴ありがとうございました」

「相馬出身でもないLOVEちゃんが相馬のためにSOMA BLUE絵の具開発してるのに、なんで私、東京で仲介屋やるんだろうって思っちゃった。ってことで〜!福島県警を受けなおすことにした」
で、見事に受かってました。この子のガッツ、どこからくるんだろう。本当にすごいと思う。
最初の頃、必ず彼女ら親子は私が相馬に行くたびに海に連れて行ってくれました。原釜・尾浜海水浴場。震災から8年間はこどもたちが泳ぐこともなかった、それでも日々の波を寄せ続けた浜です。
まこが高校生になっていた頃でしょうか。津波にあたってひしゃげたブランコがやっと直ったぐらいの頃だったと思います。夕日が沈む浜に行ったとき、元気よく枝を1本持って降りて行ったまこが、砂に大きく「LOVE」と書いていました。
あの時の胸の暖かさを忘れたことがありません。
私の名前なのかそうじゃないのかわからないこの文字が、とても素敵に見えたので。
本来ならば、2020年、3回目の「今日ここ相馬」を開催して盛大に終わろうと思っていました。「ファイナル」なんて想定をしていたもんだから、神様が「ご縁を終わらせるな」 って言ってんだなと思うことにします。
出会った現地の方々の復興へのポジティブなビジョンと、私が持ち込んだアイデアが共鳴して実現した「今日ここにいるという事」ライブは、生ける奇跡のひとつだったなと思っています。ありがとうございます。
正直、パンデミックで1番恋しいのは、福島相馬をはじめとした浜通りや、LIGHT UP NIPPONでお世話になった陸前高田や大槌、いつも経由する仙台、福島、郡山もそうですね、東北のご縁ある街にこれまでみたいに旅ができていないことです。私の場合、これまでの生活様式から一変したこと=「東北、全然通えてない!!」です。
必ず、また。どうぞそれまで、お元気で!