LOVEのひろいばなし Vol.17「三ツ矢サイダーとすき焼き」

私の父方の祖父は、愛知県豊田市にあるとあるお寺さんの住職でした。
じゃあ母方の祖父は?
父方のインパクトが強かったせいか、私は母方の祖父をよく知りません。
というか、三女である私は遅く生まれたということもあり、どちらの祖父母もよく知らないのです。父方の祖父母は私が生まれる前に、母方の祖母は私が1歳の時に亡くなりました。
つまり、共に過ごした記憶があるのは母方の祖父のみ。なのに、全然よく知らないなんてこれはいかんですということで、最近敬老の日関連にラジオで聞かれたのをきっかけに「確か、警察官じゃなかった?」と母に聞いてみました。
「惜しい、それは私のおじいちゃん。あなたの曽祖父にあたるひと」
なるほど。では祖父は?
「それが…今考えてたんだけど、何やったんやろ?笑」
母からの返信が「?笑」で来ました。娘も正体を知らない、父。まじか。
「農業はやってたはずだけど、丹後ではじめてフォードに乗っていた若者の頃は仕事何してたんだろ。網野のおばちゃんに聞いてみるね」
そうか、とりあえず母方の祖父の肩書きは、いったん「丹後ではじめてフォードに乗った男」に決定です。
母方の実家は、京都府京丹後市、こちら合併前はただ丹後と呼んでいたはず。京都に海があると聞くと意外だと思う人も多いみたいですが、京都府でも日本海側、舞鶴よりも北側の半島は豊かな山と、鳴き砂で有名な浜があったりして、とっても良いところです。‘網野のおばちゃん’はそんな日本海の漁師町、網野町に暮らす私の叔母にあたります。
一般的に、みなさんはご自分のルーツというか、ご先祖様をどのくらいご存知なものでしょうか。例えがいきなり飛躍しますが、私もデビュー当時から良き先輩としてお世話になっております吉川晃司先輩。彼は戦国大名の毛利元成の末裔でいらっしゃるそうです。すごいですよね。さすがにそうなると家系図とか、残ってますよね。お武家様ですもんね。
うちは、まあ父方は坊主家系とは言えるかな、蔵になんらかの家系図が残っていたりするのかな、と期待したのですが、そういえば私が中学生くらいのときに父方の親戚が「ルーツを探す旅」的なものをやっていたなあと思い出しました。
どうやら曽曽祖父くらいの時代に、豊田市の空き寺に入ったお坊さんがいたようで、そのルーツを辿る旅だったかと。結局、九州の大分だか熊本だかのお寺さんまでたどり着いて、そこに来たどこやらの丁稚奉公だった、ってわかったところまでが限界だったんじゃないかな。たくさんのお地蔵さんが斜面に並ぶお寺の写真だけが記憶にあります。
父方ルーツは、「九州の丁稚奉公」に決定。
さて、問題は母方です。網野のおばちゃん、情報プリーズ。
母の11歳年上であるおばちゃんは、ものすごく記憶力がいいのです。しかも数字に強い。NTTで働いていた頃はありとあらゆる電話番号やらナンバープレートを記憶できたそうで、今も衰えずだそう。
どうでもいい情報ですが、網野のおばちゃんは阪神が負けるたびに、数字を分析して?球団に怒りの手紙を(もちろん手書き)投稿しているとのこと。もし球団のだれかが網野のおばちゃんの手紙を真に受けて解析してくれていれば、いまごろ阪神は優勝しっぱなしのはずです。
さて、そんな網野のおばちゃんと長電話したらしい母からのLINEが来ました。ピコン。
「どうやらおじいさんは晩年の農業以外で仕事にはついてなかった模様」
…はい。母方の祖父、正式に「放蕩息子」に決定。
ちょっと、じいちゃん。働きなさいよ。どうやってフォード乗ってたのよ。それでいて、優しくて人望の厚い人だったとか。どういうキャラなんだ。
特別可愛がってもらった、とか、ふたりきりでどこかに行った、などという思い出もないし、ろくに話をした覚えもないので、少し不思議な感じがします。私が高校1年生くらいのときに亡くなった祖父とは、夏に丹後に帰省した時に、挨拶して、ご飯食べた、くらい。思い出が居間より外にありません。
というか、思い出自体、ふたつしかないのです。まず、三ツ矢サイダーです。
SAPPOROって書いてある、あの小さなコップわかります?立ち飲み屋で瓶ビールとセットで出てくるような、あれ。
私たちが帰省すると、まず玄関を開けたところに土間の台所と五右衛門風呂があって、そこから畳の部屋にあげてもらい、小さなちゃぶ台で飲む三ツ矢サイダーの儀式がありました。
「よくいらっしゃったな」
と連呼しながら、祖父があのSAPPOROの小さなグラスに、瓶の三ツ矢サイダーを注いでくれるのです。溢れるほどに、見えているのか見えていないのか、とくとくと。
というか、文字通り溢れるまで。瓶一本、注ぎ終わるまで。 ちゃぶ台、びっしゃびしゃになるまで。
…祖父、気にしてません。
さすが放蕩息子、フォードを乗り回していただけのことはあります。三ツ矢サイダーは、こぼしてなんぼの世界です。これぞビッグウェルカム。「あ、あの」と口を出すのもはばかられ、ありがたく頂戴します、と小学生の私もぐいっと行ったものです。その間、祖父はにこにことちゃぶ台をふいてました。
私、コーラはリポビタンDみたいな栄養ドリンクだと思ってライブ前後などに飲んでいたりするのですが、この思い出のおかげで、本来は強烈に三ツ矢サイダー派なのです。三ツ矢サイダーを飲むときだけはピュアな幸せがある。砂糖に対する罪悪感もない。あの夏の日のように、子どもの時の気持ちのままで飲めるのです。甥っ子たちも「みつや、みつや」と呼んでよく飲んでいますが、それを見るたびに、じいちゃんの三ツ矢サイダーを心の片隅で思い出してちょっと幸せな気持ちになります。
私はまだ三ツ矢サイダーをこぼしてでも一本注ぎ切るところまでの勇気は持ち合わせておりません。人間が至っていないです。果たしてコップが小さかったのか、じいちゃんの器がでかかったのか。
そして、ふたつめ。すき焼き。
祖父の家に行った時、夕飯で出していただいたのはこれまたビッグウェルカムなすき焼きでした。
居間のふすまのむこうはすぐ祖父の寝床でした。食べ終わって団欒、というよりはすぐにふすまの向こうに消えていく人だったので、ご飯を食べている間だけ一緒にいることができます。
ぐつぐつ。美味しそうにすき焼きが煮えています。
各自、自分の小皿に卵を割って溶いて、ワクワクと食べはじめ…いや、ちょっと待て。じいちゃんの小皿をよく見ると、卵を溶いていないのです。
どうやら食卓でそれに気付いているのは私だけ。ちょっと、じいちゃんお肉、つけてる?ちゃんと卵につけてる?これ常識なの?どうして誰も指摘しないの?みんなおしゃべりしたり、お肉に夢中だったり、テレビをみたりしています。
…え、これ、触れていいやつ?だめなやつ?
小学校低学年の、謎な感性。
食事中、母に訴えてもいいものかどうか勝手にドキドキしながら、「じいちゃん卵潰してない。黄身、残してる」の暗号を心で必死に送りながら食べるすき焼き。どこかのタイミングで箸で潰すの?先に白身で後に黄身、という食べ方がここではクールなの?チラチラ確認することに妙なスリルと使命感を感じながら、これは母に後で報告せねば、と祖父の手元を監視しながら食べました。
食べ終わったらそそくさと消える祖父が残していった小皿には、綺麗に黄身だけが残っていました。すき焼きの熱々の具によって、若干硬くなりはじめたかのように見える、黄身。それが妙に特別に感じられて感心したのを覚えています。黄身を割らずに食べる方が難しいだろうに。「なるほど、この達成感が目的だったんですね、じいちゃん」的な。たぶん、違うけど。
以降、数年に渡って私はすき焼きを黄身を潰さないスタイルで食べ続けることになります。人に説明はせずに。ただ、それが当然かのように。やってみてください、けっこう潰れてしまいますよ。
そしていつからでしょう、もう一度、黄身を割ってすき焼きを食べるようになってしまった私は、そして普通に黄身を潰して食べた方が美味しいと思うようになってしまった私は、何か大事なものを失くしてしまったのでしょうか。
誰も知らないと思いますけど、今でもすき焼きを食べる前に卵を溶いているあの時間、「私は祖父に対する裏切り者なのだ」という秘密の感情を抱いています。(知るかってね)
三ツ矢サイダーとすき焼き。
おだやかな祖父との思い出、あまりに少ないのですが、少ないがゆえに鮮やかなふたつです。強烈にDNAに組み込まれた記憶です。

おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に育った人たちや、身近に感じてた覚えがある方は、普通にお話できますよね?お年寄りと。
なのできっとわからないと思います、この感じ。小学生の頃、私はご近所のお年寄りとどう話せばいいのか、全っっっっく掴めなくてですね。終始、戸惑い続けていました。
孫が祖母に甘える「えええ、おばあちゃんがやってよお」とか。
孫が祖父に甘える「ねえおじいちゃん、これ買って」とか。
それ、どうやって言うの…?って思ってました。
ましてや自分のおじいちゃんおばあちゃんでもない近所のお年寄りに、普通にペラペラ喋れる子、すごいなと思ってました。
えーっと、年上だから甘えていいのか?「今からローソン行くのー!」
いや、年上だから敬語じゃないといけないのでは?「今からローソンへ行って参ります」
一番難しいのは、逆にお年寄りを子どもみたいに扱う大人がいること。「はいはいおばあちゃんちょっと待っててね、今行くからね」とか、あれは一体どういう立ち位置? この場合、「はいはいおばあちゃん、ちょっとローソンいってくるからね」はエレベーターで居合わせた他人のお年寄りに対して、もう絶対におかしい。
お年寄りとどう話せばいいのだ…。
というのが小学生低学年の頃の私の悩みでした。
私はマンション育ちなのですが、ご近所さんなどにヨボヨボのおじいちゃんもおばあちゃんもいらっしゃいました。エレベーターって密室ですからね。もちろん何かご不便があればこちらが補わねばとは思っていたものの、言葉遣いがわからない。よくて「何階ですか?」、あとは沈黙。
これでは愛想が良くないからいかん、ということで、結果「本日はお日柄もよく!!」などとばか丁寧な前置きで挨拶をする妙な小学生になっていきました。これなら大人からお年寄りまで、嫌な顔する人はいませんでしたからね。同級生が変な目で見てただけ。ふつうに「こんにちは」で良かったのにね。
おばあちゃんの縫ってくれたワンピース。
おじいちゃんに買ってもらった〇〇。
ともだちの祖父母シリーズ、うらやましかったですね。
ただ大人になって面白いのは、祖父母という圧倒的な「おじいちゃん」「おばあちゃん」だったはずのお年寄りが、普通に彼らも父や母だった、若者だったことがあるということが、妙に新しく感じられるようになったりして。
丹後の祖父がフォードを乗り回していたのは、母が生まれるもっと前、彼が20代-30代の頃だったとしてたぶん1920年代なんですよね。ひえー、今から100年前くらい?
調べてみたら、アメリカの自動車会社フォードモーターズ自体、1903年設立。1907年に最初の2台がプロトタイプで作られ、翌年の1908年に発売開始。1909年の1年間だけでもモデルT型の発売数が1万台を超えて、それまで富裕層のみの乗り物だった自動車が大量生産体制に入って大ヒットに。1925年に日本法人の「日本フォード」が組み立て工場を日本に作りました。
さてはじいちゃん、このタイミングですね。だいぶ攻めてますね。
みなさん、モデルT型、見たらびっくりすると思います。1912年に沈んだタイタニックの船内の駐車場、素敵な車の中でジャックとローズがいちゃいちゃしてましたけど、あんな感じ。ガチのアンティークモデルですからね。
当時京都府北部に車なんてなかった頃、親に甘やかされてフォードを買ってもらった放蕩息子、ぶいぶいに乗り回していたそうです。この頃の丹後なんて、道路、塗装されてなかったでしょう。田んぼの畦道でこんなもん乗ってどうするんだっていう。ばあちゃんが俺のローズってか。笑わせるぜ。
そんな祖父、いちおうローズと結婚してからは、真面目に(多分)町会議員をしていたこともあったとか。
祖父以前の母方のルーツですが、代々地主で田畑もたくさん持っていたそうです。しかし、まさにこのフォードを息子に買って与えた、長年警察官を勤めていた人物こそがどえらい気前が良い人だったらしく、他人に土地を分け与え、いろんなものを手放して、ほとんど何も残らなくなってしまった、とのこと。我が母は、子どもの頃「うちは貧乏」と思ってたそうで、この網野のおばちゃんによる新情報にびっくりしてました。
こういうのって自分の身内だから楽しいのかな、と思ったけれど、よく友達が「旦那のおばあちゃんが株で大儲けしてたらしくて」とか「当時ブラジルに移住した組だったらしくて」とか、そういうのをチラッと教えてくれるたび、他人でもお話を聞いてみたくなります。どんな時代背景で、どんな決断があって、どんな人生を送られたのか。お江戸の時代から続く老舗のお店とか、場所が移転してもお商売が続いているご家庭なども、普通以上にいろんなお話が残っているんだろうなと憧れがあります。
うちは、とくに家系のレガシーといったものを普段意識する家庭ではありません。建物や土地なども受け継いだものはないし、基本、各世代、おのおのの人生、おのおののものだと思っております。
でもおじいちゃんレベルで1920年代とかまでいけるんですから、一番身近なタイムトラベルとして、ファミリーツリーを遡ることって面白いかもしれません。そう思うと、江戸時代なんて、けっこう近いですよね。
祖父がフォードを乗り回していた話をしておいてなんですが、それぞれの時代に、きっとそれぞれの苦難もあったのだろうと想像が膨らみます。第一次世界大戦から第二次世界大戦に突入するまでの間も、そこには何かしらのドラマがあったはず。曽祖父が土地を人に配ったのも、きっと理由があるんでしょうし、私には思いもよらないような人たちの生活や会話を聞いてみたかったなと思う今です。それぞれの背負ったものの中で、どんなことが喜びだったのかインタビューしてみたいです。
私がいつか死んだら、福島県相馬市にたくさんの人の協力で残すことができたSOMA BLUEタイルのことや、音楽をやっていた人らしい、ラジオで喋っていたらしい、なんて仕事のことが語り継がれたら本人としては嬉しいけれど、意外とどうでもいいようなことを末裔は語り継いでしまうのかもしれません。
祖父は、フォードと三ツ矢サイダーとすき焼き。 私は、何をピックアップしていただけるのでしょうね。