LOVEのひろいばなし #154「集団の狂気」

実験のようです。人もラットも同じだと思いますけど、自分のパーソナルスペースが確保できないほどに制限されたエリアにぎゅうぎゅうに詰め込まれると、本能的にもう全身からアラートが鳴るのだと思います。
渋谷PARCO、ポケモンセンター!メッカです!
3連休のど真ん中の日曜日の昼に行ってしまいました。海外の友人の子どもがポケモン、特にニャースが好きだそうで、以前そのご家族が私に色々と送ってくれたお礼にポケモングッズを買いたかったのです。ニャースは悪者の猫のキャラ。ネットでもみてみたけれど、あまりメインどころのグッズには見当たりません。ならばポケモンセンターに来ればきっと何かあるだろうと思ったのです。
エレベーターを降りたものの、歩けない、動けない。ノイズがすごい。みたことのない景色が広がっていました。なんじゃこりゃ!
PARCOのそのフロアは、 NINTENDOショップも一緒になっていました。そちらも大盛況な模様。整理券を受け取りに外の階段まで行かないといけないみたい。
もちろん半数は子どもたち。めちゃくちゃ楽しそう!嬉しそう!ハイパー!そしてそのご家族の努力たるや。そこに横からものすごい圧の観光客の波。
あと、ポケモンセンターにおいては、30代ぐらいのなぜか白人男性が1/3を占めていました。ビジネスの文脈内で、カルトマーケティングという言葉があるのをふと思い出すほど。子ども時代が終わっても、終わらないもの。
すごい。ポケモンは神なのだ。そして、隣のNINTENDOも神なのだ。神に近づいて何らかのニャースグッズをあやかるためには、私はこの群衆を蹴散らしてでも前に進まないといけないのだ!
と思った瞬間、えづいておりました。はい、無理。普通にもっと平和にポケモングッズ買いたい。
バックヤードにつながる通路に身を潜めて私は深呼吸をし、復活しました。そしてポケモンセンターのレジ列がこれまたどえらいことになっているのをみて、さくっと踵を返したのでした。どうもありがとう。またいつの日か、会いましょう。
さて、ここのところずっと、ネーミングを探しているものがあります。簡単に言ってしまえば「集団の狂気」なわけですが、「狂気」と言ってしまうと、正常でないということになるのが気になって。他にもっとしっくり来る言葉がどこかにあるに違いないと思っています。
というのも、とある集団の一部になった時に発動する我々の〇〇な心理って、ごく「正常なまま」暴走したりしますよね。本来ならば表に出てこれなかったものが地底から湧いて露出できるようになっちゃう、みたいな。チェック機能が解除されちゃう、みたいな。
というのも、最近、ガガ様が見たくて映画「JOKER Folie A Deux」を見に行ってきたんですね。ガガはもちろん素晴らしかったですが、ガガのことなどどうでもよくなりました。映画としては、それが一番良かった。
私たち観客は一体何を期待してこの映画を見に行くのだろう、行ったんだろう。簡単に言うと、JOKERが大暴れすることなのだと思うのだけれど。今の段階で映画のネタバレをせずに書くにはまだ日が浅すぎて難しいです。
ただ、実はこのテーマは実はまさに最新曲「We Only Live Once」を書くにあたって考えていたことでした。大変前置きが長くなりましたが、ちょっと今日は曲の背景をバラしてみようかと思います。
2021年のNetflixドラマ「Midnight Mass(邦題:真夜中のミサ)、ホラー映画系のマイク・フラナガン監督。この作品を見て書いたのがこの曲です。
飲酒運転で人を殺め4年間服役した青年。地元の島(狭いコミュニティです)に戻ってくると、その島の教会には馴染みの牧師ではなく、新たに若い牧師が赴任してくるのでした。罪人と、神に仕える身。彼らの周りではやがて、奇跡のような超自然現象が起こり始めます。ただし、犠牲者も、出る。はたしてこれは誰の仕業なのか。どういう仕組みなのか。
ホラーが大の大の大の苦手分野である私ですが、ちょうどロシアのウクライナ侵攻が始まった頃に「あなたなら見る価値があると思うよ」と人に説得されて見始めました。なんというか、美しくもあり、不気味でもあり、ぐんぐんとぞわぞわとしながら、この島の住人たちの人間模様を眺めるようにドラマを見ました。キリスト教の予備知識があったらきっともっと面白いのだろうけれど、確かに、十分に私にもわかる気がしました。
結局、おばけや悪魔だとかも怖いけれど、一番怖いことって何?
カリスマになっていく牧師の傍にいる修道女、これがめちゃくちゃ怖いのです。 さらにその周りで、止められない炎のように広がる「集団の狂気」も、どえらい怖い。
祭り上げられるのは誰だっていいし、どうだっていい。 信じたいものを信じて、「それを正義、他を悪」とし、他人と「そうだそうだ」と合意を与え合うことで前に進もうとする集団。一人では絶対にそこまではやらないようなことを、正しいというお墨付きを誰かにもらいさえすれば、やってのけられるようになる個々が「集団」になっていく。
しかも、そのモチベーションは、人のためだったり、自分の罪滅ぼしだったり、赦しを乞うためだったり、愛だったりするので、別に悪人じゃない普通の人たちこそ振り切れていくのです。良かれと思って。
それが、ものっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっそい、怖い。
恐ろしさを脳天に叩き込まれた気分になりました。
一作前、「Someone To Love」では、「誰もが多かれ少なかれ傷ついたことがある「-Everyone’s been hurt before, one way or another」というフレーズを、コロナ禍を経てボロボロになった私たちの救いになればと思って書きました。
が、今回は逆。どんなにまともに生きている人も、誰もが多かれ少なかれ人を傷つけたことがある。果たして、私たちはそのことをどのくらい自覚できてそれ以降の人生を生きているのだろう、と思って買いたのが We Only Live Onceでした。
消去もやり直しも効かない
もっとましな結末にできたはずのこと
せめてもの償いは同じ傷を二度つけないこと
We don’t get to undo or redo what could’ve ended better
The least you can do is to hurt no one twice
軍隊や、宗教。時になぜ急に暴力が正義になるのだろう。誰もが自分の故郷を守ったり作っていくためになら!という善のモチベーションで、一人ではできないようなグロいことまで、できるようになってしまうのは、なぜ。
また、宗教においては赦しを乞えば救われるという免罪符や、軍隊においては無惨なほどによくやったと称されるメダルなどがなぜ必ずセットとして用意されている。一度でも人を深く傷つけた人が、二度と過ちを犯さないようにするどころか、それ以降の人生がより素晴らしいものになると - のちにそれが幻想だとわかるにしても – 一度は思い込まされる世界。どういう作りになってるんだ。
急に夢の話で申し訳ないですが、私は昔から何度も人を殺した夢を見ます。
夢の中に実際のシーンはないけれど、そんな過去を埋めて隠した後、普通に生きている夢です。ただし毎秒罪の意識に苛まれ吐きそうになりながら暮らしている。何をやっても楽しくなく、嘘に嘘を重ね、苦しくて苦しくて、それこそ死にたくなるほどしんどい。
目覚めるたびに「夢でよかった」と汗だくになっています。聞いたら、同じ夢を見たことがある人、結構いるらしいですね。
この苦しみから解放してくれるのが「集団の狂気」なのでは。
集団に飲み込まれるということは、同じ罪をいくらでも繰り返してもいいという正義を手にすることです。牧師だろうが大統領だろうがJOKERだろうが、「あの人がそう言ってたから」という責任逃れのカードがもらえる。つまらない自分の人生に、正義感や達成感など、むしろ誇り高い意義を感じられるようにすらなるかもしれない。いじめっ子やら汚職議員やらを正義の集団でぶっ叩くという快感。もしくは自分が罪人ならば、自律性を差し出せば他人や神に罪を許してもらえるという降伏、それもまた快感なのでしょうか。
そういうところに行っちゃいかねない、ごく平凡な自分を見つめてみる。
We Only Live Onceは、一度きりしか生きられないと訳しましたが、ファンの方々はきっと何かしら感じ取ってくださっていることでしょう。本来の意味は、一度やったら死に値する、とか、一度うらぎったら二度と戻らないものとか、二度と元の自分に戻れないこととか。そのくらい、罪に2回目ってありえないよねということを歌っているつもりです。
そしてそんな私もまた、見逃してもらえるのならばお金だって受けとりたいかもしれないし、やられるよりはやりたいし、先に横暴な真似をしておいて逃げ切ろうとする奴らをお前たちだけずるいじゃないかと恨んだりする一瞬がある。
その度に思います。あぶな!と。「たんすの角に思いっきり足の小指にぶつけろ」と祈る程度にしておかないと、あっちの世界の一部になっちゃうぞ。あそこには行きたくない、そこで暮らしたくない。ああ、群れたくない。
センセーショナリズム、という言葉があります。ただしこちらは政治家とかメディアなどが主語。自分の目的に合わせて人々を煽る「扇情主義」と訳すそうです。これはこれで愚かだけど、もっと怖いものは自分の中にあると感じます。
私たち群衆自体が主語になる、「集団の狂気」のようなもの。いまだにしっくりくる言葉に出会えず、探しています。何か、いい言い方はないものかなあ。