LOVEのひろいばなしVol.125 「住職のじゅんごおじさん」

父方の実家は愛知県にある、お寺さんです。まあまあ大きいです。
ひいじいさんだかひいひいじいさんあたりが、九州の方からやってきたお坊さんらしいのです。私が小学生の頃だったでしょうか、一度父が親戚と一緒にルーツ探しをしてました。ただし辿り着けたのは何世代か前の大分のお寺さんまでだったそうです。そこに丁稚奉公に来ていた少年が我らの先祖!というところまで突き止めたけれど、それより遡ることは難しかったそうな。
ということで、我が父方の家系は、少なくとも何世代かは代々お寺さん系統でございます。
まあ、寺といっても色々ありますね。宗派によっちゃ、すごい修行してるとことか。いまだにありますもんね。
三年間は修行で比叡山から降りてこれない天台宗ですとか。天台宗は、七年かけてひたすら歩く修行などもありますね。
東大寺は華厳教、パーカッショニストのスティーヴ・エトウ氏がご縁あって手伝いに入ってらっしゃる儀式の「お水取り」なんて、お堂にこもって火にあぶられるがごとく修行が千二百五十年間も続いてますね。
奈良は割とハードコアなものが数多く残っていて、私が初めて聴いた時、思わず大笑いしたのが世界遺産の大峯山。こちらは自然崇拝と仏教と神道が入り混じったものだそうですが、今でも女人禁制の山で、その絶壁で逆さづりにさせられる修行があるそうです。不謹慎ですみません、思わず大ウケしました。なぜ吊るのだ。しかも逆さって。きっつい。
我が実家のお寺さんは、そんなふうにたくさんの宗派に枝分かれしている仏教の中で、最もユルイと行っても過言ではないでしょう。浄土真宗でございます。浄土真宗のお坊さんは、酒も飲むし結婚もします。
もちろん立派な方々もたくさんいらっしゃるはずなんですが。
現・住職の我がいとこのにいちゃんはですね。継いだばかりのころだったでしょうか、コンビニの前で一服しようと車を降りて、タバコを吸いながらなんとなーくエンジンふかそうと思ってアクセル踏んだら、サイドブレーキがかかってなくてそのまま無人の車がコンビニに突っ込んでしまうという事故をおこしてました。ぼんぼんのボンクラ坊主、ただの傍迷惑エピソードやないかとこれまた私十代の時には大笑いしましたけれども。
この世には人々が観光で訪れ畏敬の念を抱くような、それはそれは立派なお寺さんもたくさんあります。まあ、あくまでも我が父方の実家は、地域の葬儀や法事などを担当している、そんなまち寺とご理解ください。
住職だった祖父は、私が生まれる前に亡くなりました。無論、記憶はありません。祖父亡き後は、しきたりどおり長男のじゅんごおじさんが寺を継ぎました。私の父は次男坊にあたります。
私にとってはおじいちゃん代わりのじゅんごおじさんです。大人の目線で見たことがないのでどうしても子どもフィルターがかかってしまいますが、威厳がありつつ優しくて、安心感があり。なぜこの人が私の父じゃないのだと祖父を恨むくらい、私は叔父のことが大好きでした。逢いに行けるのが嬉しかった。よく可愛がってもらいました。
叔父は書道家でもありました。お寺のとなりにあったプレハブで、近所の子どもたちに習字教室も開いていました。
いいなあ。じゅんごおじさんにだったら嫌いな習字でも習ってみたいなあ。そう思っていた小学生の頃、大阪に暮らす私は習字の半紙を封筒で送る形で叔父と文通していました。すると叔父は朱色で直しを入れて送りかえしてくれるのです。大阪の我が家のリビングにも、叔父がしたためた何やら漢文みたいな、かっちょいい書が額に飾ってありました。
大人になってから知りましたが、そんな叔父は歴史学者でもあったのです。卑弥呼の鏡について研究しており、一般向けになかなか興味深い本も出してました。やだ、カッコイイ。
はー!!それに比べて、どうしてうちの父ちゃんは!!
そう、我が父は、完全なる次男坊コンプレックスの塊のような人です。生まれた時から寺を継ぐ自覚をもって責任感強く育ってきた長男と、後から生まれた天真爛漫な妹に挟まれて育っています。おそらく幼少期から「俺の存在価値とは」と探しあぐねており、早くに寺から出て、攻めた感じで船乗り学校に行ってみるも「違った……海じゃなかった……」と挫折し、じゃあ京都で勉強する!と意地になって大学院まで行って、なんとか教授になった人です。
それはそれで立派なことです。がんばったんだからそれで落ち着きゃあいいじゃないのと今なら言って差し上げたいですが、あまりにも根深い「ぼくちんは住職じゃない、住職になれない」コンプレックスにより、彼の人生はこの後家族を持ったことをきっかけに「威厳アピールしてなんぼ」の世界に突入していきます。勤勉さが取り柄の大学院生と結婚したつもりの母もびっくりだったと思います。
餃子の王将に家族で食べにいく時にすら、受付で「予約した中村だが!?まだ準備ができていないのか!?〇〇大学の中村だが!?」と言ってしまえるような人なのです。いかに私たち三姉妹が「サザエさん家ののり平さんが怒鳴るのなんか全然目じゃない…この人ガチでキツイ」と思いながら育ったか、おわかりになることでしょう。他人ならコミカルでしょうが、これ身内だとまあまあ地獄の時もあります。私の父話が少ないのは、皆様がドン引きしかねないので話せることに限りがあるからです。王将で、ギリ。
マイルドなエピソードでいうなら、正月に袴履いて登場するとか。は?なんで急に?と半笑いの我々に「元日からだらしない、着替えてこい!」とマンションの壁が震えるほどに怒鳴り。その後正座で座った我々は、それぞれありがたい訓示を垂れていただいてから「ありがとうございます」とお礼を申し上げてやっとお年玉を受け取らせていただける、という。この間、我が姉①は「わかったわかった、聞いてあげる」という、「無言ながらに上からの態度」という技をマスターしており、次女の姉②は、にこにこして印象は百点満点でありつつも父の話を完全にスルーする天才でした。この人は、すごい。驚くほど、全く話を聞かないことができるんだそうです。うんうんって言ってたじゃん……と慄く私は、この二人の姉を見て父に対する身の振り方を覚えたようなものでした。
話がそれたようですが、そんな父と日々暮らしている私にとって、叔父は大きな安心感がありました。騒いでいたらちゃんと叱ってくれたし、厳しくもされましたが、優しかった。私にちゃんと色々教えてくれました。
そんな叔父は五十七歳で亡くなりました。とっても早いですよね。がんでした。私の父は父で、祖父なきあと唯一見上げていた兄を亡くし、この後心の支えを失ったのか心身のバランスを崩していきます。父にとっても偉大な兄だったのでしょう。
私は中学生になっていました。亡くなる前にお寺に逢いに行ったときのことです。ガリガリになっていた叔父、でもにこにこと迎えてくれました。居間で話している間もずっと横になっていましたが、おもむろに「風呂に入ってくる。ふっちゃん、背中を流してくれないか」と言われたのです。叔父はわたしのことを本名の蕗子から「ふっちゃん」と呼んでいました。
小学生のときとは違います。中学生にもなるとこちらも天真爛漫な姪っ子ではなくなってました。ふっちゃんなんてもう誰も呼ばない。思春期だし、初めて見るガリガリの叔父に戸惑ってるし。死ぬと聞かされていて心づもりができていても、何かとリアクションめちゃくちゃ取りづらいし。
「五分たったら風呂に来てくれな」
母や叔母さんやいとこたちとも離れて、じゅんごおじさんと二人っきりになったのは本当に小さいころ以来だった気がします。
こんこんと風呂場の扉を叩いたら「おう」と返事が来て、叔父はこちらに背を向けて座ってました。私は風呂の中には入らず、脱衣所の端から手を伸ばして渡されたタオルで背中を洗いました。背骨が浮き出た頼りない背中、しわしわになった肌。かける言葉もないです。
「これでいいの?」
「あああ、気持ちいいなあ!」
しばらく無言で背中をゴシゴシして、ふいにお背中流しセッションは終了しました。
「ありがとうな」
私は扉を閉めて居間に戻りました。叔父はそのまま寝に行ったと思います。次に叔父に会えたのは、もうお葬式の時でした。
寺の関係者が多いこともあり、袈裟をきた親戚一同の住職類も勢揃いしていました。何十畳あるか知れない大広間。普通は一人が読み上げるお経が、合唱のように響き渡っていました。
高いお堂の天井にワンワンと響き渡るお経の中で、生まれて初めて私は人の死を悼む強烈な感情を経験しました。それは抱えきれない何かが這い上がってきて爆発するような感じがして、我慢しようとしたけど抗えないものでした。堰を切ったように声をあげて床につっぷし、十三歳の私は大泣きしていました。あれが、慟哭、というものだったんだと思います。隣の姉がびっくりしてタオルをくれて、そのまま放っておいてくれました。
今週、そんな叔父の二十七回忌でした。私は行けませんでした。あの頃とは、親戚付き合いも随分と変わりました。いいことばかりじゃないです。歳をとった父は以前よりも火力は落ちたものの、色々とゴネていることもあります。法事なんて、仲良くなければ面倒臭いの極みです。亡くなった叔父を前に、何をごちゃごちゃと!と叔父に申し訳ない気もするくらいです。
ですが、そんなこたあ関係ないのです。
私と叔父には、私と叔父の用があるのです。
じゅんごおじさん、私もいい大人です。そして、ものすごく楽しくやっております。習字、すみませんもうやってません。ヘロヘロの字でグッズとか作っちゃってます。おじさまもどうぞ、そちらの世界で、くれぐれもお元気で。

お寺は百年に一度、大規模な修繕をする瓦替えの儀式というものがあります。じゅんごおじさんの世代、私が七歳の時、そのタイミングがやってきました。これラッキーなことだそうです。
修繕が完成すると、「落慶法要」といって、街の子どもたちを集めて装飾着をつけて練り歩くお祝いの行事が催されます。お稚児さん、とか、稚児行列、と呼んだりするみたいです。
祖父と結婚した祖母が近くのお寺の娘さんだったということもあり、とにかく我が一族、寺関係者がめちゃくちゃいるんですね。はとこにあたるのか?いやもはやナニトコにあたるのかもわからないけれど、同じ歳くらいの小さい子どもたちもお寺さん直系でたくさんいたはず。
ですが、お稚児さんのヘッドを選ぶにあたり、叔父は私を指名してくれたのです。
そうなんです、一族の、ヘッド張らしてもらっちゃいました。舐めんなよ。ゾクのヘッドだぞ。
おしろいに赤いおちょぼぐちの口紅など化粧を施され、頭にシャラシャラした金の冠を載せられ。そして行列の御輿、先頭に担がれた幼い私は、事情をよくわかっていませんでしたが、仰せつかった任務遂行に真剣でした。祝い事の衣装に身を包んで威厳を振りまき歩いていく叔父の背中を見ておりました。
ただ、もう目が悪かったので、メガネをはずされて何がなんだか。
ホームビデオをむけられ、「どうよ!」とインタビューされるも、慣れない口紅に唇を閉じられなくなっており。ひよこ口のまま「くちえに、キヴォい」とだけコメント。
さきほど「お稚児さん」の漢字を調べたくてググりましたところ、
「古来よりこの役を務めたお子さんは丈夫に育つとされています」
と書いてありましてちょっと笑いました。お陰様で、丈夫に育ちましたとも。叔父のおかげでしょう。あと、ええ、もちろん父のおかげです。
(って嘘でも書いとかないと、ひろいばなし読んでないと思うけど万が一うっかり読まれる日がきたら、また面倒なことに。
はー!!これだからうちの父ちゃんは!!)