LOVEのひろいばなし Vol.12「ゴリラのハランベ」

別れ話を、きちんとできる人、してきた人たちを尊敬します。

気持ちのいい別れ話なんてあるわけがないけれど、それでもちゃんと、私はこれまで礼儀を尽くしてこれたのかしらと振り返ってみると、なんだか苦い味がします。誠実に話せたこともあれば、0点の別れ方もあった。振られる側としては、誠実に話してくれた人のほうが断然後になって感謝の念が湧いたこともありました。いずれにしても、別れ話はどちらにとっても辛いものですよね。

自分が誰かを振る側になった時も、あんな嫌な思いを今から私がさせるのかと思うと、別れ際こそ投げやりになってはいけないと思い出します。そんな気持ちが、私を突き動かしました。きっと彼も彼で、別れの気配にはもう気づいていたはず。

「上野動物園。ゴリラの獣舎の前に、明日3時に待ち合わせましょう」

…さて、今日のひろいばなし、このメールを人に送った日から、二週間ほど前にまず遡ります。

「ねえ、どう思う?この映像みた?」

この11年ほど、週3〜4で生放送をご一緒させていただいている放送作家の女性、私の2つ上のHちゃん。ある日の放送前のスタジオにて、とあるニュースを教えてくれました。

「アメリカの動物園で、ゴリラの獣舎の中に、3歳の男の子が転落したらしいんだけどね」 その獣舎はお堀に囲まれた作りになっていて、男の子は母親が目を離した隙にどうしたことか厳重な柵の隙間をすり抜け、3メートル下のお堀の水の中に落ちてしまいました。その際のゴリラの動きかたが、少年を匿ったようにも見えるし、ただただ危険を及ぼしているようにも見える、とネット上で議論がヒートアップしているのだ、と。ビデオを見てみると、男の子の転落時、母親は叫び声をあげて助けを求め、周囲の人たちも異変に気づくやいなや叫び声をあげるなど、周囲は騒然としました。当然でしょうね、ゴリラは猛獣です。体重180kg。ココナツを簡単に握りつぶせる力を持つといいます。その手に3歳の少年が、と思うだけでもゾッとします。

…と、ここまで「ゴリラ」とあえてドライに呼んできましたが、彼には名前があります。

ハランベ。

オスのハランベは、動物園生まれ。生後21日で母ゴリラが育児放棄。以降、赤ちゃんの頃から飼育員に育てられ、やっと大人の仲間入りをして17歳の誕生日を迎えたばかりでした。子供の頃から彼を育てた飼育員によると、大変穏やかな性格で、ハランベ、ハランベ、と職員からも愛されていたそうです。

ハランベからしても、異常事態です。自分の住処の周りで、人間が大騒ぎをしていることに当然ながら警戒し、興奮します。そして自分のテリトリーの中に転がり落ちてきた人間の男の子に気づくと、その小さな足や手を持ち、お堀の中をひきずるようにギャラリーから離れる方向へと移動したのでした。柵からその模様を見下ろしているギャラリーは、男の子の命が危ない!とさらにパニックになり、その雑音に対してまたハランベは苛立っていくかのようです。

結論から言うと、男の子は無事助かりました。動物園の飼育員が、ハランベをライフル銃で撃ったからです。

麻酔銃では、効果が出るまでさらに数分がかかってしまう。男の子に危害が及ぶ前に下された、素早い決断。転落からそう長くはなかったそうです。ハランベは即死しました。

私にこの話を教えてくれたHちゃんは、考えても考えてもどうしても割り切れないのだ、ラヴちゃんどう思う、と聞いてくれました。だって、子どもって、どんなに目を光らせていても予想外の動きをするものでしょう、そしてこの少年の親御さんはもう十分に罰せられたはずだと思うんだけど、と。

なるほど、この動画が拡散された後、一瞬とはいえ子どもから目を離した両親に対して、ネット上ではバッシングがヒートアップ。‘監督不行届。両親の怠慢がゴリラの死につながった。身柄を拘束すべきだ’と45万もの署名も集まりました。

両親は甘んじて批判を受けました。そして、息子が無事だったことを動物園に心から感謝し、また一方で自分たちへの同情を下さる方々がいる場合には、むしろハランベを悼む気持ちを優先して動物園へ寄付してくださいとコメントしました。

動物愛護団体は絶滅危惧種のゴリラを射殺した動物園の責任を問いました。なぜ、殺す必要があったのか、他に方法はなかったのか、と。そもそもの管理体制も問われましたが、シンシナティ動物園は米国で最も多くのニシローランドゴリラの繁殖に成功するなど、そもそも絶滅危惧種のゴリラ保護に積極的な施設でした。

園長は、「この痛ましい出来事は誰が悪いという話ではない。チームの素早い対応で子どもの命を救うことはできたけれど、ハランベを失って我々職員全員が悲しんでいる」とコメントしました。動物園にとっても非常に難しかったこの決断。それを支持した何千の人たちからは、ハランベを悼んで手紙や寄付が届いたそうです。

…と、この時点でもうすでに、いろんなものの見方ができる出来事でしょう。

途方もないやるせなさを覚えた私は、そのあと1日中ハランベに語りかけるように考え事をしていました。この話に出てくる人たちは、みんながみんな、不運な出来事に対して最大限自分の責任を果たそうとした。結果、ハランベが死んだ。でも、そこかしこの、それぞれの関係性に「愛と責任」の奥行きが感じられるのはなぜだろう、と。

男の子と、その親。 ハランベと、彼を撃った飼育員。

ハランベと、動物園の園長や職員の皆さん。

飼育員と、園長。

動物園そのものと、そこを訪れる子どもたち。

中でも特に二つ目。ハランベと、彼を撃った飼育員さん。

この二人の間にあった何かが、一番胸に語りかけてくるのです。ハランベを撃った飼育員さんは、日々のハランベのお世話する担当者でもあったと聞いて、胸が張り裂ける想いがしました。「自分が正しいことをしたかどうかわからない」と実直なコメントも残してらっしゃいます。

私がもしハランベだったら、今、天国で何を思うのだろう。

もちろんハランベはゴリラだし、天国があるかないかの議論を置いておいたとしても、私としてはとりあえずいったんハランベになりきって考えてみないと気が済まなかった、それだけなんですけど。すべてのディテールと合わせて「ハランベは自分を撃った人間を恨むだろうか」という命題、当時お付き合いしていた方にも聞いてみました。

「飼育員が悪いよ。僕が飼育員だったら、ハランベとまず最初に話をしたよ」

思ってもみなかった角度で返事が返ってきました。

「ハランベ、少年を引きずっちゃダメだよって。それでダメなら、僕は悲しいけど、撃ちたくないけど、君を撃つからねって説明してから撃つよ。やっぱり撃たない方法をまずは探らないと。そりゃあ飼育員が悪いよ」

…ほほう。話す、と。

相手、ゴリラですが?

少年の命がかかっておりますが?

動物園で子どもが死んでしまうことなど絶対にあってはいけないという大前提に今我々は立ってこの出来事を捉えておりますが?

そもそも動物園自体が人間の勝手じゃないか!という議論はあるにしても、いろんな矛盾の中で、それでもハランベを愛し、彼と過ごす中で勤勉に仕事に打ち込んでいた飼育員のヒューマニティーは今回の場合疑いようがないのですが?

…なるほど、これかと。こりゃ今日まで色々他にも噛み合わなかったわけだなと。「愛と責任」についての感覚の違いが決定打になったと言いますか、なんといいますか。この瞬間に私の中で一つの恋が終わりを迎えました。二週間ほど寝かせた後、冒頭の「上野動物園ゴリラ前、集合」につながるわけです。

「愛と責任についての根本的な考え方が違うのでごめんなさい。わたしハランベを撃った飼育員みたいな人と一緒にいたいんです」と、目の前のゴリラを直視しながらお断り申し上げるという、なんというか、言われた方も困惑しかなかったでしょうね、っていう。後にも先にも、ゴリラの前でゴリラを理由に別れ話をしたのはあの時一度きりです。もうちょっとなんか方法あったやろ、と今なら思います。

さて、話は戻ってハランベは「自分を撃った人間を恨むだろうか?」ですが。妙ちくりんな別れ話なんぞよりこっちの命題の方が私にとって大事になって参りました。当時の私の頭脳そのままで、天国にいるハランベになれたとして…という仮定に基づいての想像、お許しください。

もし私がハランベだったら。

自分を撃ったのが、見知らぬ警察や軍などではなく、日頃から一番そばにいてくれた人だということ。私にとってはそれが全てだったと思います。

私が男の子を傷つけてしまわずに済んだこと。最悪な役割を言い訳しないでやりきってくれたこと。張り裂けそうな気持ちだったとしても、少なくとも私を撃った飼育員さんに対して「あなたは何も悪くない」と、それだけは伝えたかったと思います。

育ててくれた飼育員さんとの間に信頼関係があったのなら、自分に向けられた人間からの敵意によって撃たれたわけじゃないことぐらいは感じ取れたんじゃないかと思います。もしくは、そんな風に思いたいだけかもしれません。ただ、撃たれる直前にもし飼育員さんと目が合っていたら「なぜ?」とは、思ったでしょう。どうして撃つの、と。

でも死んだ後に、「せっかく説明してくれたのにあなたの言葉を理解できなかった私が悪いんだ」とか、「結局最後には獰猛な生き物だと思われて嫌われてしまったことが悲しくて悔しい」といった、自分の命の価値を疑ったり、人間全体を恨んだりするイメージがあまり湧きませんでした。

男の子にも傷ついてほしくなかったし、でももちろん長く生きていたかったし、もう会えなくて悲しいのはきっと飼育員さんもハランベも同じ気持ちだったんじゃないかと。

本物のハランベがどうだったかは皆目わかりません。撃たれる直前、怒ったのか戸惑ったのか、興奮状態で飼育員さんの存在など目に入っていなかったのか。そもそもゴリラがどのくらいの感情とどのくらいの頭脳でものを考えるのかも、私は詳しくは知りません。

ただ、猛獣だとしてもですよ。敵意と親愛を判別する感性がどのくらいハランベの中にあったのか。そして進化した’風’の人間の私たちはどのくらい誰かと「愛と責任」を共有できるものなんだろう。などと、今一度あの映像を見ながらぼんやりと考えてしまいます。

人間とゴリラというくくりではなく、ハランベとあの飼育員さんの間に存在する何かがもしあるのなら、それはとても貴重なものなずです。1日では作れないもの。そして、あの飼育員さんは、ハランベのことを一生忘れないはずです。その遺産が、苦しい気持ちばかりじゃないことを願います。 大人のオスのゴリラにとっての使命はたったひとつなんだそうです。

「自分の仲間(グループ)を守ること」

オハイオ州シンシナティ動物園には、背中に子どもを乗せたハランベの銅像が建てられました。毎年、来園者の子どもたちやその家族が、たくさんの花を手向けていくそうです。

 

ハランベ。曲にしようかと思ったことがありました。ただ、書けませんでした。‘私の解釈’というニンゲンの勝手で曲にしてはいけない気がしました。ただ「あ、私、このハランベの名前は一生忘れないだろうな」と強く思ったのをよく覚えています。

うまく言えないんですけど、この話、誰が加害者なのかが私には全くわからないのです。ただ、ハランベが死んだことだけがものすごく悲しかった。いつかまた腑に落ちたり、もしかしたら何かが変身して曲になるような日がくるといいんだけどなあ、と思います。

いろんな立場や角度から、何回も何回も見て。

物事の全体像をおぼろげに掴んで。

その中で、突出して光るものに目を凝らして、フォーカスを当てる。

これ、私にとっての、作曲や作詞作業も似たような感覚です。

ちなみにニュースを見る時の感覚も同じです。大体ひとつのニュースで全体像が見えることはありません。関連ニュースを繰り返しパズルのピースを立体的にはめて行くように見たり読んだりして、ある時ぽんと突出して浮かんで見えるものが愛や人の善意だったときは嬉しいのですが、そうでもない時には本当に幻滅します。

話は飛びますが、仮に自分もあの世に行った時にはジョン・レノンや岡本太郎さんとかに会えるとして。それもめちゃくちゃ最高ですけど、私、それ以上にもしかしたらハランベに会いたいかもしれないです。

まあバナナでも食べなよ、と。天国のジャングル的なセットに腰掛けて。(天国でならなぜか話せる設定)

L「あの時、お堀に落ちてきた男の子だけどさ。弱いもの、として認識した?守ろうとした?それとも別に、何も考えてなかった?」

H「えー。そりゃあ子どもが落ちてきたーって思ったよお、もぐもぐ」

L「周りの人間うるさかったよね?怖かった?」

H「あんな風にニンゲンが叫ぶとか普段見たことないしさあ、そりゃあもうなんだよーってなったよねー」

L「あの飼育員さんには会いたい?」

H「えー、もう思いっきり撃ったじゃんね。めっちゃ早かったし、もう頼むよーっていうさー」

L「けどさ、ハランベ、あのとき子ども引きずっちゃってたから危なかったよね」

H「うん、ゴリラってああいう風に子ども運んだりするんだよ。ニンゲン、ケガがなくてよかったよーほんと」

ってこれも良くないですね、ニンゲンの私の勝手な妄想ですね。ハランベにはハランベの感覚があったはずですから。

私はやっぱり動物園も水族館も大好きです。そこが清潔で、動物や生き物にたいするケアや医療が行き届いていることが好きですし、人間の子どもが喜んだり、また生き物と触れ合って、命に対する感性が育まれているのを見るのも好きです。オタクな飼育員さんによる生き物愛がそこかしこに見えるのも好きです。

「水族館や動物園って、本来の自然と違う環境の中に生き物を閉じ込めてるのってひどいことなのかな」と10代のときは思ったりもしました。けど「本来の自然の生活に一番程遠いような人間が、本来の自然で動物が生きるはずのスペースをがんがん伐採していることのほうがやばいよな」と今は思います。子どもの頃から動物園や水族館で生き物の生態に興味を持ちながら大きくなったから、今そう思えるんじゃないのかなあ。いつかオハイオに行く機会があったら、シンシナティ動物園にももちろん行ってみたいです。

最後に、ハランベの名前なんですが、ボブ・マーレーの奥さんだった、リタ・マーレーの曲からとられた名前なんだそうです。今回調べ直していて初めて知りました。

「ハランベ」は、スワヒリ語で「力を合わせて頑張ろう」という意味だそうです。

ドキっとしました。まるでゴリラがこっちを見てる感じがしました。急にジャングルに帰ったかのような野生のままで、ドッシリ座って、こっちを見てる。視線だけで、脳に直接、言われてる感じ。

「力を合わせて頑張ろうな、ニンゲン」。


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