LOVEのひろいばなし Vol.115「カレーうどんと白いシャツ」

しまった、やってしまった。財布がない。

今しがた、あつあつのカレーうどんをすすってかいた心地よい汗が、瞬時に冷や汗に変わった。

駅の改札を出て地上に上がり、すぐに目に入った「カレーうどん」の暖簾。ちょうど時刻は午後二時、晩夏の東京で傾き始めた太陽はまだ勢い衰えず、アスファルトはジリジリと音を立てそうなほどだった。交通量が多い国道沿いの埃っぽさ。ねっとりとした熱気にうんざりした僕は、なるべく歩かずすぐに入れる店に飛び込んだのだった。

仕事で時折訪れるエリアだから以前も来たことがある。細長いカウンターが一人分ずつパネルで仕切ってあり、カウンターの向かいからバイトの青年が注文を取りに来る。当然季節的には冷やしうどんもあるけれど、僕はこの店の看板メニューのカレーうどんを頼んだ。出汁とほどよい辛さが本格的で、なかなかうまいのだ。

特製カレーうどん、七三〇円。

この店が現金のみの店だということは、入り口の張り紙を見てわかっていた。このご時世、バーコード決済やQR決済、電子マネーの普及により現金のみの店もずいぶん減ったものだが、こうしてときどきこだわりを見せる店は嫌いじゃない。当然ながら僕は財布を持っていると思っていた。

どうしようもないので、支払いに立ち、出口のレジで事情を説明することにした。

「本当にすみません、現金のみだとはわかっていたんですけど、まさかの財布を忘れていたみたいで……」

「はあ」

「本当に申し訳ありません。明日また必ず来るので、何か連絡先を残させていただくなど、ご対応いただけませんでしょうか。本当にすみません、申し訳ないです」

「いやちょっと、それは……」

「ごめんなさい。会社の名刺があります」

僕は名刺入れから名刺を取り出し、手渡そうとした。

「いや、名刺もらっても困るんで。どなたかに連絡して持ってきてもらったりできないんですか」

これが店主などだったらまた違ったかもしれない。バイトの立場からしたら融通を効かせるのも難しいのは僕もよくわかる。二十代の青年は、人となりや感情をしまいこんだ無表情で、ひたすら「いやちょっと」と沈黙を繰り返した。

ありったけのアイデアを出した。名刺、何か貴重品を置いて行く。住所と電話番号、ありとあらゆる個人情報を渡す。免許証を預けようと思ったら、それも財布の中だったから無理だった。会社に電話して在籍を確認してもらう。アップルウォッチを置いていく。その全てに彼は「いや、ちょっと」とつぶやき沈黙した。

彼には権限がないのだ。どうやってことを進めたらいいのかもわからないのだろう。こうなると、にっちもさっちもいかない。しばらく僕は同じお願いを繰り返し、彼は同じ反応を繰り返した。

レジに一番近い席のカウンターに座っていた女性が、パーテーション越しにちらちらとこっちを見ていた。彼女も食べ終えて、お支払いをしたいのだろう。無銭飲食した三十代の男こと僕、そして二十代のバイト青年の間に信用が構築されるにはとてつもなく時間がかかりそうだった。少し後ろに下がって先にスペースを譲ることにした。

「お先にどうぞ、すみません」

「あ、どうも。じゃあ失礼します」

カタンと立ち上がった女性はジーンズにシャツ姿で、頭にはポップな青いサングラスをのせていた。

「っていうか、どうしたんですか」

「あ、いや、すみません財布を忘れてしまったもので」

「ああ。そうなんだ。現金だけですもんね、ここ。何食べたの?」

「えっ」

急に聞かれると答えられない。敬語と、急に入り混じるタメ口。年齢は少し僕より上なんだろうけど、なんだか独特の女性だった。

「何、食べたの?おごってあげようか?」

「ええ!?いやいやいや、いいですいいですいいです」

「豪遊したわけでもあるまいし。次、どこかで誰かにおごってあげればいいんじゃん?」

「いやいやいや、もうほんと。そんな。すみません、いいですいいです」

彼女も特製カレーうどんを食べていたらしい。レジに向かって、自分の分の支払いに小銭を準備しながら言う。

「ラストチャンスですよー。何、食べたの?」

「お……おなじものを」

つい答えてしまった。

「特製カレーうどんね、おっけ」

「え、いやいやいや、本当にお気持ちだけでめちゃくちゃありがたいです。ダメですダメです」

「いいよ。大丈夫」

「いやダメですって」

圧倒されている間に彼女が支払ってしまった。

「うわ、ええええ、もう本っ当にすみません。必ずお返しします」

「うん、まあどっちでも。はーい、ごちそうさまでしたー」

そのまま流れるように暖簾をくぐって店を出た彼女は、まとわりつく暑さに眉をしかめた。

「申し訳ないです。ありがとうございます。これ、僕の名刺です」

「あ、ううん、いらなーい」

「でもお返しに行きたいので。もらってもらえませんか。ご連絡先聞くのもぶしつけでしょうし」

「うーん。なんかさ」

「はい」

「人を信用できないのもね、どうかなっていう話だよね」

「えっ?」

一瞬自分のことを言われているのかと思って面食らった。

「いやさ。お店の人が悪いわけじゃもちろんないんだけどさ。人を疑ってかからなきゃいけないこのご時世自体、どうなのっていうね」

なるほど、そっちのことか。彼女は財布をかばんにしまって今にも歩き出そうとしながら、ふとこれが言いたくて立ち止まった、というようなついでさでそのまま続けた。

「財布忘れることぐらい、あるじゃんね」

「いやいやいや、完全にこれ僕が悪いんで」

「まあね。でも見るからに大人だし。わざとじゃないんだし」

「だって僕みたいなのを簡単によしとしたらそこに付け込むような人も出てきちゃうでしょうから」

「その場合、悪いのはそいつじゃん」

「まあそうなんでしょうけど」

「なんで性根の悪い奴らに合わせてこっちが基準設定してやらないといけないんだっていうね。なんか馬鹿馬鹿しいよね」

「はあ」

「というわけで。もいっかい言うんですけどー。お店の人が悪いわけじゃないけどー。あのやりとりをー。やらなきゃいけないご時世にー。なんかウンザリしちゃってるのでー。おごらせていただきましたあ」

そういって、彼女は急にぺこりとお辞儀をした。つられて僕も深々とお礼をすることになった。彼女の白いシャツの前にカレー色のシミがついているのが見えた。しばらくその一点を見つめながら僕は頭を下げ続けた。カレー色の暖簾が揺れる前で、僕は何をやっているのだろう。

「でも本当に、返金させてください。ご迷惑にならないところをご指定いただければお届けにあがりますんで」

「いい、いい。似たようなことがあったときに次誰かに奢ってあげてくれれば」

「なかなかないですって。しかも僕男なんで、もし相手が女の人だと嫌がられるかもしれないですし」

「あ、そうか!そういう考え方もあるのか!大変だねえ」

「はあ」

なかなかうんと言ってくれない。店のバイトくんも手強かったが、こっちの女性も独特の手強さだ。僕が再度お願いすると、彼女は「わかった!」といって自分のスマホを取り出した。

「逆にカレーより高いかもなんだけど、これ」

トトト、と画面を操作して、彼女がスマホをこちらに向けた。検索画面には青いペンが映し出されていた。

「これね、すっごいペンなの。世界でも珍しい色褪せない顔料使って作った、一応日本初のペンで、東北の、福島の子どもたちへの寄付にもなるんです」

意味不明の角度から、急なカーブボールが飛んできた。ついていくだけで必死である。はたまた、これはなんの勧誘なんだ。

「ソウマ、ブルー、マーカー……ですか」

「そう。これね、いろいろすごい経緯があってできたペンなの。わたしが作ってまーす」

「あ、そうなんですか」

「うん。なので、一本二本オーダーしてくれたらそれがお返しになるっていう、そういうことでどうですか」

「はあ。それでよければ」

「うん。それもどっちでもいいけど。まあ買ってくれたら嬉しい。で、ついでにいうと、もっと高くなるけど同じにサイトで売ってるアルバム買ってくれたらもっと嬉しい」

「アルバム?」

「私のアルバム。本業が歌い手なので。もちろん好きだったら、でいいから。YouTubeとか見てみてください。というわけで、じゃあ!」

「わ、わかりました!」

「ソウマ、ブルー、マーカー、ね!検索してね!」

「はい!本当にありがとうございました!ご馳走さまでした!」

「どういたしましてー!」

呆気に取られながら、僕は駅の逆方向に向かって歩き出した。シンプルにさくっとカレーうどんを食べて仕事に向かうつもりが、なんとも長いランチになった。忘れないようにとスマホに「ソウマブルーマーカー」と打ち込んだ僕の白いTシャツにも、カレーの汁が飛んでいた。

カレーうどんと白いシャツ。これは、彼女と僕の馴れ初めの話である。

※この物語はフィクションです。

 

調べたら、ソウマブルーマーカーは本当にすごいマーカーだった。あの日、あれよあれよと展開したカレーうどんの店前で出会ったこのマーカーには、東日本大震災からの時の流れがすべてこもっていて、なかなか他にない魅力があった。

僕が務める小さな企画会社の社長の耳に入れると、ちょうど日本贔屓のヨーロッパのおもちゃメーカーとともに新商品の開拓プロジェクトが進行中だったこともあり、候補商品のひとつとして結局僕らはソウマブルーマーカーをプレゼンすることになったのである。結局、欧州営業販売を担当することになった僕は、あのカレーうどんの無銭飲食から半年後、このマーカーを彼女から大量に購入することになったのだった。

そうやって知り合った僕らは、さらに数年後、あのカレーうどん屋がある同じ街に家を購入することになる。そして、カレーうどん色をテーマカラーに、カレーうどんがメインディッシュになる披露宴をこじんまりと挙げた

あえてカレーうどんのしみをつけたスーツとドレスで撮って参列者に苦笑いされた記念写真は、僕らの玄関に今日も飾られている。

……このぐらいまで行きたかったんですけど、あまりにもなんでやめておきました。願望こみの作り話です。現実にお帰りなさい。ただの嘘だよ。

ただし、前半は実話。

「ラストチャンスですよー。何、食べたの?」

までは実話なのです。その後の展開は割とあっけなく終わっちゃいましたが。

「お気持ちだけでもめちゃくちゃありがたいです。でも大丈夫ですので。本当にありがとうございます」

「そうですか、じゃあ、失礼します」

「はい。ありがとうございました」

「がんばってねー」 以上。

でもお兄さんが白いTシャツを着ていて、私と同じくシミが飛んでいたのは本当です。みんな同じことやりますね。なんで白いシャツ着てる日に限って、カレーうどん食べたくなるんですかね。

帰り道、なんとなく反芻しながら、いっそ店員さんの方に値段聞いて一緒に払っちゃえばよかったなと思いました。そしたらきっとこんな展開が待っていたかもしれないのに。ソウマブルーのヨーロッパ展開があったかもしれないのに。私のバカ。

という妄想で、一本。

お付き合いありがとうございました。


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