LOVEのひろいばなし Vol.106「西村とルパン」

「こちらの物件、僕が、僕だけがオーナーから直接預かっているんです。売りに出すことも考えているそうなんですが、今週中に借り手が見つかるなら賃貸で出してもいいと。十二階の角部屋ですからね、ご覧ください、東から南から西へと、圧倒的に開放感のある二面バルコニー。この景色は百点ですね!」

最高の眺めだ。滅多にない物件、それは間違いない。

僕が務める会社は、オーナー物件を直接取り扱う有名どころで、国内ではトップシェアの大手仲介業者だ。ただし給料はそう高くない。茨城から上京して大学卒業後、就職したばかりの二十代の頃は辛かった。三十代中盤、やっと肩書きが「店長代理」になって少しだけ昇給した。とはいえ、僕はここで留まるつもりはない。まもなく資格試験も控えていて、それに受かったら僕はすぐにでもさらなる昇級試験を受けるつもりでいる。

僕のデスクの背後に構える、色白の歌舞伎役者-最近ではドラマにも舞台にも大活躍のあの俳優にそっくりの店長-は、高身長で切れ目が美しい。いつものことだが、入店直後から来店者が見惚れている視線を、店長自身が感じないわけがない。「店長代理、ちょっと」とデスクに呼びよせられるたび、背の低い僕はいつかあいつを超えてやると、毎日少しずつ決意を新たにしている。

結婚してから数年後、妻の方が単身赴任で仙台に暮らすことになった。一般的には珍しいのかもしれない。遠距離夫婦生活になってから、もう一年が経つ。毎月一回、僕が仙台に行くか、妻が帰ってくるか。東京の人間の匂いに日々まみれている僕はできれば仙台の澄んだ空気を吸いに行きたい。ただ、これまでは飼い猫のルパンに会いたいと妻が帰ってくる方が多かった。

二週間前、ルパンが脱走した。

ちょうど来週に去勢手術を控えていたタイミングだった。繁殖期のピークだったのか、いままで二年間家を出たことのないルパンが、突然いなくなった。仕事ばかりの僕の寂しさが伝染したのかもしれないだろう。ある日帰宅したら、換気で開けていた網戸の間をこじあけて、ルパンはいなくなっていた。伴侶を探しにいったのだろうとはわかっていたものの、僕は想像していたより数倍もうろたえた。

毎晩、仕事帰りに近所を探し回り、警察にも届け出を出した。「猫は数日なら食べなくてもやっていけるから少し待ってごらん」と近所の愛猫家たちがアドバイスをくれたが、気が気じゃなかった。他で餌付けされない限り帰ってくるだろうからと言うけれど、ルパンのいない生活は涙が目尻に滲みそうなほど寂しかった。

近所の人たちの協力を得ていよいよ街に張り紙を出すことにした週末、その直前にルパンは帰ってきた。妻にも報告した。そしてぺースを取り戻した日曜日の僕は、大事なこの物件を翌日の月曜日公開で設定したのだった。

オーナー直々に「西村、お前には期待してるからな」と一任され、他の仲介業者では扱えない物件として、僕だけが担当することになった。これまでもオーナーの直案件はあったが、今回は規模が違う。今回の成果次第では、都内にいくつも不動産を持っているこの富豪と長いお付き合いになるやもしれず、何より僕の評価に直接的に関わる案件なのだ。

冷やかし内見などもってのほか。初日が勝負だ。

情報をインターネットに公開して、午後すぐ、一番手の女性が内見にやってきた。歳の割にはカジュアルな服装だが、フレンドリーながら言葉遣いは大変丁寧な人だった。あなどってはいけないタイプのお客様だったが、その時の僕は甘く見積もっていた。

「この広さ。この絶景。駅近で、しかもこの設備。床暖房まであります。って、ありえないですよね、このお値段!格安ですから!この条件ですから、オーナーも強気でいらっしゃるので、申し込みは一番手さんのみで進行します、検討したいとかキャンセルの可能性があるなら申し込みは受け付けられません」

月曜日の僕は、次から次へと強気で事情をまくしたてた。冷蔵庫裏の壁紙は、どうせ隠れるので張り替えません。窓ガラスにヒビがあるので交換しますが、入居後の対応でご理解いただける方のみ、申し込みを受け付けております。入居は可能なら今週から。など、通常なら少し強引と思われても仕方がないくらいの、オーナーからの条件は尽きなかった。

とにかく絶景なので、内見すればこの開放感に誰もがやられるはず。最初に見た時の僕もそうだった。

女性は音楽関係の仕事を自宅でするために、組み立て式の防音室を設置するという。もう十五年ほど引越しのたびに持ち歩いているので、苦情は来たことがないしトラブルになったこともないと。「ただし、安心のためにオーナーに許可をいただくようにしています」と説明された。なんのそれしき。ちょろいだろう、なにせオーナーは急いでいるのだから。

そもそも兄弟が同時相続で譲り受けたというこの部屋、賃貸で保有しつづけたい兄と、売買で現金化したい弟でもめている間に六ヶ月間も空室が続いていた。オーナーにとってみれば、完全なるロスである。

女性は家族にもみてほしいから、とビデオを回しながら内見していた。

「借り手はすぐに見つかるだろうからということで、仮申し込みは受け付けません。本気のお申し込みのみ。このあとも少しでも悩まれるようでしたら心を決めてからにしてください。ただし、今日中にまだ数名内見希望がいらっしゃいますので、埋まってしまう可能性は大いにございます」

女性はチェックが早かった。なんと、実は同じマンションの別の階、全く同じ角の部屋を購入しようとしたことがあるという。これも何かのご縁ですね、と微笑んで、彼女は振り返った。

「お申し込みさせていただきます。防音室のためにも広さが必要でしたので」

僕は一瞬どきっとした。

実をいうと、この物件、バルコニーの平米数が床面積の表記に含んでいる。二面バルコニーなので、なんと十五平米分。下手したら、八畳分ほどにもなる。

だが、そもそも約何畳、という表記は厳密ではないし、同じ平米数でも、間取りによって人は広くも狭くも感じるものなのだ。さらに、この部屋のように外があまりに開放的な景色だと実際より体感はより広く感じられる。気づく人は内見で気付くが、気づかない人は気づかない。彼女は後者だった。

細かい採寸は後日やるとして、そう言って、僕らはそのままオフィスに向かった。僕のスケジュール上、明日が休みで明後日が資格試験。保証会社への申請を今日中に終わらせておきたかった。試験が終わったら、木曜日にもう一度採寸にこれると伝えたら彼女も納得した。

「試験?何の試験なんですか?」

説明すると、「勉強家なんですね!」と速攻褒められた。マンションを出てからの道すがら、そのまま僕らの雑談は弾んだ。彼女は僕がどういう人間なのかに興味を持っていたようで、僕は僕で、物件の話をするより違う話題で時間をやり過ごしたかった。

「西村さん、もし聞いてよかったら、ご出身は?まさか福島だったりしない?」

「え?福島?茨城ですけども」

「ははは!東北ニアミス!まいっか!」

「どうしてですか?」

「私仕事でよく福島に行くんです。前の仲介屋さんは、たまたまなんだけど福島県相馬市出身の人でいらして、特に私相馬市とのご縁が深いもんですから、話し込んで仲良くなったりして」

「へえ、そうでしたか!茨城じゃダメかあ」

「いえいえ、私のプロジェクトには向こうで出会った茨城出身の人も協力してもらったから。ご縁めぐりめぐって西村さんの故郷にもありがとうですよ」

オーナーさんに安心してご紹介できる人だと僕は思った。時々、タチの悪い借り手もいる。とりあえずで申し込みをしておいて簡単にキャンセルしたり、重箱の角をつつくような欠点を探してはいちゃもんをつけて交渉をしたりする。できれば今回はこのぐらい社会性のある人で早々に決めて、オーナーに安心してもらいたかった。

つい、ルパンの話をしてしまった。

「ええええええ」

まるで自分の猫のように彼女はルパンの脱走に胸を痛めた。そして帰ってきたというと、また自分の猫のように、ルパンの帰還を喜んだ。

「よかったですね、それはそれは。もう〜心配だったでしょう。あああよかった。よかったなあ〜!」

その日、彼女は申し込みの書類を記入し、「よろしくお願いします」と笑顔で頭をさげて帰っていった。

火曜日の僕は、休みをとっていた。翌日の試験に向けて、ダイニングテーブルで数時間勉強した。日が暮れるまで、視界のすみにはルパンのしっぽが揺れていた。夜確認すると、例の女性からは「インターネットの確認をし忘れた」と確認メールが入っていた。公休の日は基本は社のメールを使うべきではないので、明日の朝イチで対応することにする。僕は下書きだけ準備した。

今考えたら、水曜日の僕が判断を間違ったのだと思う。出社すると、彼女が夜中に送ったらしいメールがもうひとつ届いていた。

「こちらの物件、平米数にバルコニーの面積は含まれていますでしょうか。入金、契約前に確認させてください。おやすみの日にメール失礼しました。今日の試験、がんばってください」

僕はこのメールは見なかったことにして、昨日下書きしておいたインターネットについての返信だけをバカ丁寧に添付資料を作成して送った。すぐに返信が来た。

「インターネットのご確認ありがとうございます。すみません、別途もうひとつメールをお送りさせていただいたのですが、埋もれてしまったかもしれません。こちらの物件、平米数にバルコニーは含まれている可能性があるんじゃないかと思いまして」

僕はそのメールをそのままにして、午後から試験会場に向かった。

木曜日の朝、僕は店長に相談した。このお客さん、気づいたみたいです、と。デスクから立ち上がりもせず座長の歌舞伎役者のように腕を組んだ店長には、ただ一言「決めてこい」とだけ言われてしまった。

必死になった木曜日の僕は、最初のメールに返信しなかったことを詫びることすら忘れた。

「こちら、確かにバルコニー面積が床面積に含まれております。登記書類を添付いたしますのでご確認ください。今夜七時にマンション前集合でお願いいたします。丁寧に家具の配置など、採寸しながら検討しましょう。よろしくお願いします」

返事は二時間後に来た。メールを開く前から僕はこの申し込みが成立しなくなることをわかっていた。こんなやり方は詐欺だろう、鋭利に批判する文言が僕を待っていることをわかりながら開くと、案の定、長文だった。

ただし、意外なことに彼女は怒ってはいなかった。不動産表記に関する法律を調べていたらしかった。

「あまりに素敵な景色だったので内見時にはきづけませんでした。でも、内見時の開放感と、いただいた平米数と、持って帰った図面での家具の配置がどうにもしっくりこなかったものですから。たまたま以前購入しようとした別階の図面を見つけまして、勘が働いたまで。参考までに、別階物件の資料も添付します。実際、バルコニーは通常なら床面積に含みませんが、三面が壁面で屋根がある場合は床面積に含むことが許されるようですね。ですから今回の表記は違法ではありませんが、最初から詳細をご案内いただきたかったです。オーナーさんもお急ぎでしょうから、今回はこれにて辞退させていただきます」

たとえ平米数がイメージと違っても、同じ物件は二度とない。景色、最上階、角部屋、設備。そのどれをとってもいい部屋なのは間違いなかった。値段が妥当かどうかの基準は平米数だけではない。彼女はそれも理解していた。最後まで読んで、この人を侮ってはいけなかった、と僕は思った。

一番下に僕宛のメッセージがついていた。

「PS 短い期間でしたがお世話になりました。ルパンとの幸せを祈ります」

僕は、素直に詫びの返信を書くことにした。そして最後に定型の挨拶として、理想のお部屋が見つかるよう祈っております、と締めた。誤字がないかメールを読み返した後、少し迷って、でもやっぱり追記することにした。

「PS 今後の新生活を応援しております」

僕は、何も法律を破っていない。誰かに嘘をついたわけでもない。ただ、彼女の真心に返せるものを持ち合わせていなかった。自分から出てきた精一杯の言葉が、これか。

このあと僕は、店長とオーナーにたっぷり叱責された。すぐにでも次の借り手が見つかるように、また情報公開の準備をやり直した。問い合わせが大量にくる人気物件なのだから。すぐにでも決めてこい、と誰もが変わらず強気だった。床面積の数字は、このままいく。それがオーナーの希望だった。

東京の絶景と引き換えに、八畳分の幻が数字に含まれている図面を僕は見つめた。あとから作る真心や信用には、限界があるものだ。

職場から二駅。地下鉄の窓からは、住宅は一軒も見えない。暗闇のトンネルを抜け、自分の最寄駅の出口を上がった途端、ほっとした。今日は梅雨の中休みか、夕日が綺麗に沈もうとしている。スーパーに寄って、つまみと猫缶を買って帰ろう。僕のアパートは南東向きなので、西日は入らない。帰り道に見る夕日だけが、僕の一日の終わりを照らす。

玄関を開けると、リビングからすとすととルパンが出てきた。僕が靴を脱いであがると、すりぬけるように僕の足元を一周して、そのままリビングへと戻っていく。ネクタイを緩めながら、いつもより少し多めに図面が入ったカバンを廊下に置いたら、思いのほかドスンと響いた。

ルパンが振り返って、にゃあ、と鳴いた。

 

この物語はフィクションです。登場人物は、モデルはいますが、想像上のキャラ クターです。万が一、知り合いづたいなどで西村(仮名)を特定できる方がいらっしゃる場合は、何卒「西村、がんばれよ」とお伝えください。

ルパンの話を聞いてなかったら、私、もっと怒ってたと思います。

いや、まじで。西村さんね。「あなた、オーナーからのプレッシャーものすごいのねー」とか、「そんな中、頑張り屋さんでえらいのねー」などと思った私の最初の勘は外れてはいないはずなんですけども、なんだかね、あなたのために切ないですよ、わたしは。

つか、オーナー、どんだけジャイアンなんですかと。

よくみなさん「あの人、根はいい人なんですけど」とかよくいいますけど、声を大にして言いたい。根が腐りきった悪い人なんてそんなにいないですから。だいたいみんな、そこそこ根はいい人なんですってば。

からの、ただただ強引な人が上から皺寄せしてくることによって、西村さんみたいな人が生まれるんですよ。あなたのせいですよ?と、十二階よりも上に向かって私は叫びたい。がるる。

けど本当に素晴らしい景色の物件でした。私は西村さんにあそこに住んでほしい。視界に入る限りの住宅、その窓ひとつひとつに灯る明かりを、感じてほしい。そして大事に私らにご紹介していただきたい。上京してから今まで、私は何度も引っ越してきたけど、どの家もちゃんと大好きな家でした。

で、そういう大好きな家で大好きなペットと暮らす喜びをウサギを飼って知りました。だからですよ、西村さん。あなたとルパンの幸せを私は祈るんですよ。いつの日か店長になったら、システムごと変えてやってくださいよね。応援してますぞ。


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